映画『午後3時の女たち』
「セックスするなら、夜じゃなくて午後3時半がいい。」
ちょっとわかるぞ。そう思うのは私だけではないのでは…。
この『午後3時の女たち』は2013年製作の映画で、日本での劇場公開は2015年だったようです。
なぜ”午後3時”なのかと言えば、映画の序盤で主人公がカウンセラーに対して言った「夜寝る前にセックスするなんて最悪」「例えば午後3時半とかがいい」という意見からとっているのでしょう。
でも、映画では3時”半”って言ってるのに、邦題は3時ってところが個人的に引っ掛かってしまいました。
鑑賞後、この記事を書くにあたっていろいろ調べたところ、劇場公開当時はちょうどフジテレビの大ヒットドラマ「昼顔」が放送されたあとで、私は知らなかったのですが、このドラマの副題が「~平日午後3時の恋人たち~」だったそうで、なるほど邦題はここからきているのではと合点がいきました。たんに口滑りがいいというだけではなかったのか。
邦題を担当した人は、うまいことキャッチーなタイトルを考えたようです。
でも、「昼顔」って不倫がテーマのドラマですから、それを知っている人が見たらこの映画もそういうテーマだと思いますよね。ましてやポスターもそんな感じに場面を切り取って作られているし、「いくつになっても、女でいたい」というキャッチコピーまであります。これはもう主人公がそういう悩みを抱えて不倫に走る話だよって言っているようなもんですよね。実際には不倫の話じゃありませんでしたけど。
ちなみに原題は『Afternoon Delight』。70年代に大ヒットした曲の名前でもあるらしく、歌われる午後の楽しみというのはどうやら情事のことみたいなので、そう考えると、この邦題はやりすぎってわけではないのかも…。
いろいろ言いましたが、この物語はとても深いと思いました。専業主婦として周囲になじめないモヤモヤ、子育てへの不安、辞めた仕事や諦めた夢への未練、自分の気持ちが向かないせいで夫とセックスレスになっている状態への焦り、などなど、アラフォーくらいの女性が抱える悩みがきちんと描かれていたように感じました。ジャンルとしては”コメディ”の部類に入るようで、たしかにくすっと来る場面は多々ありました。
あらすじ
簡単に書きます。こんな感じだと思います。
専業主婦のレイチェルは、夫と幼稚園児のひとり息子とともに、ロサンゼルスのシルバーレイクに住んでいる。彼女は自分が恵まれた立場であることを認識しつつも日々の生活に漠然とした不満を持っており、カウンセリングに通っている。
ある週末、夫婦のセックスレス解消を狙い、日ごろから仲良くしているママ友夫婦に連れられて、ストリップクラブへダブルデートに訪れる。レイチェルはそこでストリッパーのマッケナと出会う。
ストリップクラブへ行ったあとでも、セックスレス解消とはいかなかった。1週間後、彼女は日中思い立ってストリップクラブ近隣へ出向き、移動カフェでマッケナと偶然を装って再会。それから何度か通いながら距離を縮めていった。
ある日、マッケナが寝床にしていた乗用車が駐車違反でレッカーされてしまったことをきっかけに、レイチェルは彼女を助けたい一心で自宅に住まわせることにする。ところがマッケナはストリッパーの他に、娼婦としても活動していた。
マッケナとの関わりを通してレイチェルの平凡な日々に変化が訪れ、新たな経験や気づきを得ていくが…。
これ以降の内容には、以下の映画に関するネタバレを含みます。
- 『午後3時の女たち』
舞台はアメリカ、カリフォルニア州ロサンゼルスのシルバーレイクです。
映画の中では、結構な高級住宅街に見えます。レイチェルが住む一軒家はかなり大きく、マッケナが寝泊まりする部屋はもともと使用人が使っていた部屋だったというエピソードがセリフで語られます。夫のジェフはアプリ開発事業で成功し、ほとんど仕事漬けの日々を送っています。レイチェルの周りには仲の良いママ友が3人おり、それぞれの夫を含めて家族ぐるみで付き合いがあります。みなレイチェル家族と同様、働く夫と専業主婦の妻、そして幼い子供といった家族構成です。
映画の序盤から、レイチェルがママ友との付き合いや地域行事などの手伝いをうまくこなせていない感じが描かれています。冒頭のカウンセラーと会話する場面では、なんとなくうまくいっていない日常生活についてごまかして報告しており、煮え切らない感じがします。なんだろうと思っていると、夫婦のセックスレス問題について話題が移ります。
この後のシーンで特に仲良しのママ友ステファニーに「セックスレス解消には夫婦でストリップクラブへ行くのが一番」と誘われるので、この時点で「レイチェルの問題=セックスレス」だという印象が強まります。
ただ、彼女がカウンセリングで濁していた日常のモヤモヤ感を忘れずにこの映画をずっと見ていると、レイチェルが抱える問題がもっと多岐にわたっていることが伝わってきます。
私なりに感じた彼女の問題について、以下にまとめておきたいと思います。
①日常生活に刺激が足りない
映画の端々に散りばめられたセリフの中で、彼女の過去については以下のことがわかります。
- 大学で報道学を専攻していたこと
- 広告業界に就職したこと
- 戦場記者を目指していたこと
- 息子が幼稚園に入園したときに仕事を辞めたこと
- 20代の頃は遊びまくっていたこと
彼女の年齢は明示されないので不明ですが、だいたい30代中盤から後半くらいに見えます。そうなると、20代はほぼ2000年代に被ります。
映画後半、ママ友4人で開いた女子会でレイチェルが派手に酔って超痛々しくなるシーンがあるんですが、ここで「20代はヤりまくってた」と告白し始めます。この時代って確かに「SATC」とか「フレンズ」とか流行りまくった後くらいだし、フリーセックスという概念がポピュラーだったんだろうなぁという印象があります。
ただ、「たくさん仕事してセックスして自由な人生を満喫しよう」という発想と、「結局はいい相手を見つけて結婚しなければ負け」という価値観のダブルバインドに強くさらされた時代でもありますよね、2000年代って。日本でもそういう映画やドラマやバラエティ番組が腐るほどあったと思います。
長くなりましたが、言いたいのはこうです。
キャリア思考で性生活も楽しむタイプだったと思われるレイチェルは、幸せな結婚と子宝に恵まれたいわゆる勝ち組ではあるけれど、専業主婦としての生活では刺激が足りないと感じているのではないか。
そして、恵まれているからこそ、この不満自体に罪悪感っぽいものを感じてモヤモヤしているのではないか、ということです。
②母親としての自信がない
レイチェルたち夫妻は、息子が小さい頃にはいわゆる家政婦を雇っていたようです。
レイチェル曰く、赤ちゃんだった息子が泣いたときに自分はうまく扱えなかったけれど、それに対して家政婦さんはとても上手だったそう。
それで「ちゃんと母親にならねば」と思い、息子が幼稚園にあがるタイミングで辞職を決意した経緯があるようです。
また、「痛々しい女子会」シーンでは、唐突に「息子の写真はすべてクラウドにある。自分のお母さんは自分の写真をアルバムにしてくれていたのに。」と叫び始める場面があります。映画を初めて見たときは突然話題が変わるのでよく理解できませんでした。でもよく考えてみると、彼女の抱える苦しみが見えてきた気がしました。
たぶん彼女の中には理想の母親像というか母親とはこうあるべきというイメージがあるのだけど、自分は全然それに近づけない。息子をあやすのが苦手なだけでなく母乳も出なかったと言っていましたし、成長した息子との遊び方もよくわからない。写真はすべてデータ管理なので、アルバムはひとつも作っていない。手作りでアナログなアルバムのほうが物質として存在するし、「愛情たっぷり」っぽいですもんね。
また、レイチェルは女子会で他のママ友たちに「中絶経験は?」とか、結構セクシャルな質問をぶつけています。そしてママ友全員が中絶経験者で、20代は同じように自由に遊んでいたということがわかってきます。この会話によって、人生の途中までは自分もママ友もみんな「同じ」だったはずなのに、自分だけがちゃんと母親になれていないのだということを突きつけられた気分になったのではないかと思います。
とにかく、自分は母親として出来損ないなんだと、大きなコンプレックスになっているんだと思います。
③セックスに対する意欲が湧かない
この夫婦が抱えるセックスレス問題は、映画やドラマでよくあるパターンとは違っていて、意欲がないのは妻の方です。
夫のジェフは、優しいのか何なのか不明ですがかなり寛容で、妻レイチェルのことをいつも尊重するタイプです。ストリッパーであるマッケナを自宅に泊めたいとレイチェルが言い出したときも、戸惑いつつも了承していました。
それに、映画ファンとしては「あ、ここで妻に反対してケンカになるか?」とか「あ、ここでマッケナといけない関係になっちゃうのか?」とか警戒してしまう場面でも、サラッと裏切ってくるような人間です。ただ、映画は話をどんどん展開させる必要がある特殊な世界なので、実際にはこれがリアルな人間の反応なんじゃないかとも思えてきます。
気分が乗らずに誘いを断ってしまうレイチェルですが、日常的に不満や不安に晒されてモヤついていたら、セックスなんてしたいと思えないですよね。
ですが、マッケナのおかげで無事に(?)レスを解消するきっかけが生まれます。
マッケナによる影響
彼女が家に来た翌日、友人ステファニー宅でマッケナから「自分はセックスワーカーだ」とサラッと打ち明けられます。いわゆる娼婦とか売春婦って意味ですが、マッケナは堂々としています。
今回はマッケナについても深く語ると大変なことになりそうなのでやめますが、彼女は22歳なのにかなり達観していて、余計な偏見もほとんどなく、とても純粋な女性です。
レイチェルはマッケナに、奥さんがいる人にサービスするときどう思うのか尋ねますが、マッケナは「同情はする」と答えます。「お店に来る既婚男性は妻からセックスを拒否されているケースが多い」とも。これで焦ったらしいレイチェルは、急いで夫とセックスします。
あとは、セックスワーカーとしてのマッケナの顧客のひとりが「見られるのが好き」なので、レイチェルも現場に同行したりします。いろいろあって衝動的に付き添いを希望したレイチェルは、実際にセックスするマッケナと顧客を間近で見ることにかなり動揺します。マッケナは表面的にはノリノリに見えますが、行為中一瞬だけ顔が映る場面では表情が暗く見えました。レイチェルはそこまでは見えておらず、自分の手を握りながら果てた顧客にひたすら圧倒されていました。そりゃ圧倒されますよね。
この出来事で、レイチェルはマッケナと距離を置いたり、ママ友たちとの女子会のための子守りを任せることを拒否したりして、マッケナを傷つけてしまいます。マッケナを助けたい、セックスで稼ぐなんて、と思っていたはずなんですが、現場に付き添ったのはインパクトが大きかったのでしょうか。
物語の終わり
映画の終盤では、傷心のマッケナが女子会の裏で行われていた「男子会」に乱入し、パパ友のひとりと関係を持ってしまいます。それは酔ったレイチェルを家へ連れ帰ってくれたママ友の夫であり、2人がセックスしていたことがその場でバレてしまいます。この事件によって、マッケナは家から追い出され、レイチェルも幼稚園で噂されて居場所がなくなり、ついに夫婦喧嘩も勃発して、ジェフが家を出てしまいます。
最悪な状況の中、カウンセリングを受けるレイチェルですが、カウンセラーから「一緒に住んでいることが当たり前だと思っていない?」と聞かれます。
(このカウンセラーの女性、めちゃくちゃ変わったキャラで個人的に好きです。カウンセラーなのに毎回自分の恋人とののろけ話を語ったりするんですよ。演じているのはドラマ『glee』のスー先生でお馴染み、ジェーン・リンチです。)
たぶんレイチェルはいろいろ考えたと思います。夫と離れて彼の大切さを知り、マッケナとの出会いや別れによって新たな経験や価値観を得た。そしてとどめの一発カウンセラーの問いかけで、普段の生活は幸せだったみたいなことを痛感したのではないでしょうか。
レイチェルは車でマッケナの様子を見に行ったりしています。ただ、ストリップクラブの前で同僚と楽しそうにしているマッケナを遠巻きから確認するだけにとどめています。
この、マッケナへの対応は賛否両論だと思います。レビューをチラ見したら「助けたいというのは気まぐれ」とか「金持ちの暇つぶし」とか酷評されてました。確かにな、と思います。
「マッケナを救いたい」というのも嘘ではなさそうですが、レイチェルの施しは「自分の生活に変化が欲しい」というのが一番の動機だったのは否めません。マッケナと仲良くなるだけでなく、吸ったことのないタバコを貰ってチャレンジしたりすることからも、変化に飢えているのがビシビシ伝わってきてました。マッケナの生活は厳しいものがありますが、おそらく誰かに救ってもらうことなく自分で生きていく強さのある女性として描かれているので、そう考えるとマッケナは、レイチェルに利用された感もありますね。
ただ、レイチェルは一応ブログは書いてるっぽいですよね。ブログとは、劇中「マッケナのセックスワーカーとしての生き方を広めたい」と言って立ち上げようとしていたものです。一度も「公開した」とか「記事ができた」みたいなことは示されませんでしたが、何か一生懸命ラップトップにタイピングしているシーンが映画中盤とラストに出てきます。
私の予想ですが、たぶんレイチェルは復職しようとしているし、ブログも執筆していると思います。彼女が前向きになったのは明らかなので、チャレンジしているはずだと感じます。このブログによって何かが起これば、そのときは本当にマッケナを救ったりできるのかもしれません。
洗車シーンが表現するもの
クライマックスシーンでは、レイチェルが車の洗車を終えてジェフに電話し、自宅で会う約束をつけてセックスをします。時間帯はおそらく午後。心から楽しんでいるのが伝わってくるようなシーンで、レイチェルがモヤモヤから解放されて自由になった感じがしました。まさに『Afternoon Delight』ですよね。最終的にレイチェルは、自分のちょっとした理想だった夫との”午後の喜び”を手に入れたというわけですね。
実はオープニングも、車の洗車シーンからでした。そのときは、通話履歴を行ったり来たりさせるだけで実際にはジェフへ電話せず、運転席から後ろの席へ移動したりして落ち着きがありませんでした。最後まで見てわかったのですが、このオープニングシーンは、レイチェルの「変化への渇望」がよく現れているシーンだったのかもしれません。洗車機での洗車中に車内にいると、ちょっとした非日常になりますよね。いつも座っている運転席ではなく、ほとんど乗らない後部座席に座ってみるのも、非日常になり得ます。
さいごに
コメディ映画であっても、結構考えさせてくる内容でした。
長々と述べていますが、最後まで読んでくださった方はいたのでしょうか。もしあなたがそうであるなら、本当にありがとうございます。嬉しいです。