洋画感想連想記

息をするように洋画を鑑賞して10数年です。海外ドラマも好きです。

最高のフォークホラースルメ映画『ミッドサマー』【ネタバレ無しさくっと感想】

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ミッドサマー公式サイトより


個人的には噛めば噛むほど味が出る、スルメのような映画だと思っています。

 

あらすじ

簡単に書きます。こんな感じだと思います。

親元を離れて暮らす大学生のダニーは、妹の無理心中によって家族全員を突然失う。悲しみに暮れるダニーは、大学で民俗学を専攻する恋人やその友人とともにスウェーデンに訪れ、奥地のコミューンで開かれる”90年に1度の祝祭”に参加することにする。美しい花々が咲く自然豊かな村で、住人たちから優しく迎え入れられたダニーたち。しかし、徐々に不穏な空気が漂い始める。

 

映画館へ観に行かなかったことを後悔していた映画が、ついにサブスクに降臨。

Netflixでついに鑑賞できました。解禁初日に観て、ディレクターズカット版が解禁されるまでにまた観て、ディレクターズカット版も3回くらい観て、その合間にいろんな考察記事やらインタビュー記事やら動画やらをチェックしたりして、しばらくミッドサマー漬けになっていました。これはハマる人はハマるやつだということがよくわかりました。

 

この映画は一見すると謎の多い話に見えますが、実際はわかりにくくありません。むしろ、超わかりやすい映画です。

公式サイトに「観た人限定 完全解析ページ」なる興味深い特集記事があり、意外と手取り足取り説明してくれています。そもそも映画のつくり自体も、謎を残すような描写は比較的少なく、結構丁寧に説明してくれるスタイルですし、脚本と監督を務めているアリ・アスターのインタビュー記事などを読むと、曖昧に見えていたシーンの意味を割とはっきり教えてくれたりしています。

つまり、ちょっと調べればいろんなことがわかって、再度観なおしてみるとどんどん新しいことに気がつく、というタイプの映画です。劇中に登場するルーン文字の意味、拷問の意味、タペストリーや部屋の絵画の意味など、じっくり鑑賞したり何度か見直すとどんどん引き込まれていきました。さらに、ディレクターズカット版では重要シーンが復活というか採用されて編集されているので、より一層物語の深みが増して最高に充実した体験になりましたよ。

 

残虐というか、ただグロいというか、そういう激しい描写も確かにあります。

でも大きな音で驚かしたり、必要以上に強調したりはしてこないので、個人的にはまったくイライラせずに鑑賞できる良質ホラーだなと思っています。

 

公式サイトでも個人のサイトでも、【完全解析】とか銘打って全力解説してくれているので、ここでは私はそこまではやりません。

北欧の美しい風景と、白夜の世界は異世界っぽくて最高です。とにかく美しいです。怖いけどきれいです。ずっと晴れているし、本当にホラーっぽくない。

 

ぜひ観てほしい…。

菅政権風刺映画『パンケーキを毒見する』を観てきました

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『パンケーキを毒見する』ポスター

 

「ふわふわに膨らんで美味しそうなのに、中身はスカスカ。まるでパンケーキのような菅政権」

 

うまいこと言ってますよね。

この映画は公式HPによると「政治ドキュメンタリー」というジャンルらしいのですが、

いまこの国がいかにやばい状況に陥っているのか知ってるか?

これ以上みんなが他人事として政治に向き合わずにいたらガチのマジでまずいんだよ!?

というメッセージを強く感じました。

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映画『午後3時の女たち』

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『午後3時の女たち』ポスター


「セックスするなら、夜じゃなくて午後3時半がいい。」

 

ちょっとわかるぞ。そう思うのは私だけではないのでは…。

 

この『午後3時の女たち』は2013年製作の映画で、日本での劇場公開は2015年だったようです。

なぜ”午後3時”なのかと言えば、映画の序盤で主人公がカウンセラーに対して言った「夜寝る前にセックスするなんて最悪」「例えば午後3時半とかがいい」という意見からとっているのでしょう。

でも、映画では3時”半”って言ってるのに、邦題は3時ってところが個人的に引っ掛かってしまいました。

鑑賞後、この記事を書くにあたっていろいろ調べたところ、劇場公開当時はちょうどフジテレビの大ヒットドラマ「昼顔」が放送されたあとで、私は知らなかったのですが、このドラマの副題が「~平日午後3時の恋人たち~」だったそうで、なるほど邦題はここからきているのではと合点がいきました。たんに口滑りがいいというだけではなかったのか。

 

邦題を担当した人は、うまいことキャッチーなタイトルを考えたようです。

でも、「昼顔」って不倫がテーマのドラマですから、それを知っている人が見たらこの映画もそういうテーマだと思いますよね。ましてやポスターもそんな感じに場面を切り取って作られているし、「いくつになっても、女でいたい」というキャッチコピーまであります。これはもう主人公がそういう悩みを抱えて不倫に走る話だよって言っているようなもんですよね。実際には不倫の話じゃありませんでしたけど。

 

ちなみに原題は『Afternoon Delight』。70年代に大ヒットした曲の名前でもあるらしく、歌われる午後の楽しみというのはどうやら情事のことみたいなので、そう考えると、この邦題はやりすぎってわけではないのかも…。

 

いろいろ言いましたが、この物語はとても深いと思いました。専業主婦として周囲になじめないモヤモヤ、子育てへの不安、辞めた仕事や諦めた夢への未練、自分の気持ちが向かないせいで夫とセックスレスになっている状態への焦り、などなど、アラフォーくらいの女性が抱える悩みがきちんと描かれていたように感じました。ジャンルとしては”コメディ”の部類に入るようで、たしかにくすっと来る場面は多々ありました。

あらすじ

簡単に書きます。こんな感じだと思います。

専業主婦のレイチェルは、夫と幼稚園児のひとり息子とともに、ロサンゼルスのシルバーレイクに住んでいる。彼女は自分が恵まれた立場であることを認識しつつも日々の生活に漠然とした不満を持っており、カウンセリングに通っている。

ある週末、夫婦のセックスレス解消を狙い、日ごろから仲良くしているママ友夫婦に連れられて、ストリップクラブへダブルデートに訪れる。レイチェルはそこでストリッパーのマッケナと出会う。

ストリップクラブへ行ったあとでも、セックスレス解消とはいかなかった。1週間後、彼女は日中思い立ってストリップクラブ近隣へ出向き、移動カフェでマッケナと偶然を装って再会。それから何度か通いながら距離を縮めていった。

ある日、マッケナが寝床にしていた乗用車が駐車違反でレッカーされてしまったことをきっかけに、レイチェルは彼女を助けたい一心で自宅に住まわせることにする。ところがマッケナはストリッパーの他に、娼婦としても活動していた。

マッケナとの関わりを通してレイチェルの平凡な日々に変化が訪れ、新たな経験や気づきを得ていくが…。

 

 これ以降の内容には、以下の映画に関するネタバレを含みます。

  • 『午後3時の女たち』

 

 

舞台はアメリカ、カリフォルニア州ロサンゼルスのシルバーレイクです。

映画の中では、結構な高級住宅街に見えます。レイチェルが住む一軒家はかなり大きく、マッケナが寝泊まりする部屋はもともと使用人が使っていた部屋だったというエピソードがセリフで語られます。夫のジェフはアプリ開発事業で成功し、ほとんど仕事漬けの日々を送っています。レイチェルの周りには仲の良いママ友が3人おり、それぞれの夫を含めて家族ぐるみで付き合いがあります。みなレイチェル家族と同様、働く夫と専業主婦の妻、そして幼い子供といった家族構成です。

 

映画の序盤から、レイチェルがママ友との付き合いや地域行事などの手伝いをうまくこなせていない感じが描かれています。冒頭のカウンセラーと会話する場面では、なんとなくうまくいっていない日常生活についてごまかして報告しており、煮え切らない感じがします。なんだろうと思っていると、夫婦のセックスレス問題について話題が移ります。

この後のシーンで特に仲良しのママ友ステファニーに「セックスレス解消には夫婦でストリップクラブへ行くのが一番」と誘われるので、この時点で「レイチェルの問題=セックスレス」だという印象が強まります。

 

ただ、彼女がカウンセリングで濁していた日常のモヤモヤ感を忘れずにこの映画をずっと見ていると、レイチェルが抱える問題がもっと多岐にわたっていることが伝わってきます。

 

私なりに感じた彼女の問題について、以下にまとめておきたいと思います。

 

①日常生活に刺激が足りない

映画の端々に散りばめられたセリフの中で、彼女の過去については以下のことがわかります。

  1. 大学で報道学を専攻していたこと
  2. 広告業界に就職したこと
  3. 戦場記者を目指していたこと
  4. 息子が幼稚園に入園したときに仕事を辞めたこと
  5. 20代の頃は遊びまくっていたこと

 

彼女の年齢は明示されないので不明ですが、だいたい30代中盤から後半くらいに見えます。そうなると、20代はほぼ2000年代に被ります。

映画後半、ママ友4人で開いた女子会でレイチェルが派手に酔って超痛々しくなるシーンがあるんですが、ここで「20代はヤりまくってた」と告白し始めます。この時代って確かに「SATC」とか「フレンズ」とか流行りまくった後くらいだし、フリーセックスという概念がポピュラーだったんだろうなぁという印象があります。

ただ、「たくさん仕事してセックスして自由な人生を満喫しよう」という発想と、「結局はいい相手を見つけて結婚しなければ負け」という価値観のダブルバインドに強くさらされた時代でもありますよね、2000年代って。日本でもそういう映画やドラマやバラエティ番組が腐るほどあったと思います。

 

長くなりましたが、言いたいのはこうです。

キャリア思考で性生活も楽しむタイプだったと思われるレイチェルは、幸せな結婚と子宝に恵まれたいわゆる勝ち組ではあるけれど、専業主婦としての生活では刺激が足りないと感じているのではないか。

そして、恵まれているからこそ、この不満自体に罪悪感っぽいものを感じてモヤモヤしているのではないか、ということです。 

 

②母親としての自信がない

レイチェルたち夫妻は、息子が小さい頃にはいわゆる家政婦を雇っていたようです。

レイチェル曰く、赤ちゃんだった息子が泣いたときに自分はうまく扱えなかったけれど、それに対して家政婦さんはとても上手だったそう。

それで「ちゃんと母親にならねば」と思い、息子が幼稚園にあがるタイミングで辞職を決意した経緯があるようです。

また、「痛々しい女子会」シーンでは、唐突に「息子の写真はすべてクラウドにある。自分のお母さんは自分の写真をアルバムにしてくれていたのに。」と叫び始める場面があります。映画を初めて見たときは突然話題が変わるのでよく理解できませんでした。でもよく考えてみると、彼女の抱える苦しみが見えてきた気がしました。

たぶん彼女の中には理想の母親像というか母親とはこうあるべきというイメージがあるのだけど、自分は全然それに近づけない。息子をあやすのが苦手なだけでなく母乳も出なかったと言っていましたし、成長した息子との遊び方もよくわからない。写真はすべてデータ管理なので、アルバムはひとつも作っていない。手作りでアナログなアルバムのほうが物質として存在するし、「愛情たっぷり」っぽいですもんね。

また、レイチェルは女子会で他のママ友たちに「中絶経験は?」とか、結構セクシャルな質問をぶつけています。そしてママ友全員が中絶経験者で、20代は同じように自由に遊んでいたということがわかってきます。この会話によって、人生の途中までは自分もママ友もみんな「同じ」だったはずなのに、自分だけがちゃんと母親になれていないのだということを突きつけられた気分になったのではないかと思います。

 

とにかく、自分は母親として出来損ないなんだと、大きなコンプレックスになっているんだと思います。

 

③セックスに対する意欲が湧かない

この夫婦が抱えるセックスレス問題は、映画やドラマでよくあるパターンとは違っていて、意欲がないのは妻の方です。

夫のジェフは、優しいのか何なのか不明ですがかなり寛容で、妻レイチェルのことをいつも尊重するタイプです。ストリッパーであるマッケナを自宅に泊めたいとレイチェルが言い出したときも、戸惑いつつも了承していました。

それに、映画ファンとしては「あ、ここで妻に反対してケンカになるか?」とか「あ、ここでマッケナといけない関係になっちゃうのか?」とか警戒してしまう場面でも、サラッと裏切ってくるような人間です。ただ、映画は話をどんどん展開させる必要がある特殊な世界なので、実際にはこれがリアルな人間の反応なんじゃないかとも思えてきます。

 

気分が乗らずに誘いを断ってしまうレイチェルですが、日常的に不満や不安に晒されてモヤついていたら、セックスなんてしたいと思えないですよね。

ですが、マッケナのおかげで無事に(?)レスを解消するきっかけが生まれます。

 

マッケナによる影響

彼女が家に来た翌日、友人ステファニー宅でマッケナから「自分はセックスワーカーだ」とサラッと打ち明けられます。いわゆる娼婦とか売春婦って意味ですが、マッケナは堂々としています。

今回はマッケナについても深く語ると大変なことになりそうなのでやめますが、彼女は22歳なのにかなり達観していて、余計な偏見もほとんどなく、とても純粋な女性です。

レイチェルはマッケナに、奥さんがいる人にサービスするときどう思うのか尋ねますが、マッケナは「同情はする」と答えます。「お店に来る既婚男性は妻からセックスを拒否されているケースが多い」とも。これで焦ったらしいレイチェルは、急いで夫とセックスします。

 

あとは、セックスワーカーとしてのマッケナの顧客のひとりが「見られるのが好き」なので、レイチェルも現場に同行したりします。いろいろあって衝動的に付き添いを希望したレイチェルは、実際にセックスするマッケナと顧客を間近で見ることにかなり動揺します。マッケナは表面的にはノリノリに見えますが、行為中一瞬だけ顔が映る場面では表情が暗く見えました。レイチェルはそこまでは見えておらず、自分の手を握りながら果てた顧客にひたすら圧倒されていました。そりゃ圧倒されますよね。

この出来事で、レイチェルはマッケナと距離を置いたり、ママ友たちとの女子会のための子守りを任せることを拒否したりして、マッケナを傷つけてしまいます。マッケナを助けたい、セックスで稼ぐなんて、と思っていたはずなんですが、現場に付き添ったのはインパクトが大きかったのでしょうか。

 

物語の終わり

映画の終盤では、傷心のマッケナが女子会の裏で行われていた「男子会」に乱入し、パパ友のひとりと関係を持ってしまいます。それは酔ったレイチェルを家へ連れ帰ってくれたママ友の夫であり、2人がセックスしていたことがその場でバレてしまいます。この事件によって、マッケナは家から追い出され、レイチェルも幼稚園で噂されて居場所がなくなり、ついに夫婦喧嘩も勃発して、ジェフが家を出てしまいます。

 

最悪な状況の中、カウンセリングを受けるレイチェルですが、カウンセラーから「一緒に住んでいることが当たり前だと思っていない?」と聞かれます。

(このカウンセラーの女性、めちゃくちゃ変わったキャラで個人的に好きです。カウンセラーなのに毎回自分の恋人とののろけ話を語ったりするんですよ。演じているのはドラマ『glee』のスー先生でお馴染み、ジェーン・リンチです。)

たぶんレイチェルはいろいろ考えたと思います。夫と離れて彼の大切さを知り、マッケナとの出会いや別れによって新たな経験や価値観を得た。そしてとどめの一発カウンセラーの問いかけで、普段の生活は幸せだったみたいなことを痛感したのではないでしょうか。

 

レイチェルは車でマッケナの様子を見に行ったりしています。ただ、ストリップクラブの前で同僚と楽しそうにしているマッケナを遠巻きから確認するだけにとどめています。

この、マッケナへの対応は賛否両論だと思います。レビューをチラ見したら「助けたいというのは気まぐれ」とか「金持ちの暇つぶし」とか酷評されてました。確かにな、と思います。

「マッケナを救いたい」というのも嘘ではなさそうですが、レイチェルの施しは「自分の生活に変化が欲しい」というのが一番の動機だったのは否めません。マッケナと仲良くなるだけでなく、吸ったことのないタバコを貰ってチャレンジしたりすることからも、変化に飢えているのがビシビシ伝わってきてました。マッケナの生活は厳しいものがありますが、おそらく誰かに救ってもらうことなく自分で生きていく強さのある女性として描かれているので、そう考えるとマッケナは、レイチェルに利用された感もありますね。

 

ただ、レイチェルは一応ブログは書いてるっぽいですよね。ブログとは、劇中「マッケナのセックスワーカーとしての生き方を広めたい」と言って立ち上げようとしていたものです。一度も「公開した」とか「記事ができた」みたいなことは示されませんでしたが、何か一生懸命ラップトップにタイピングしているシーンが映画中盤とラストに出てきます。

私の予想ですが、たぶんレイチェルは復職しようとしているし、ブログも執筆していると思います。彼女が前向きになったのは明らかなので、チャレンジしているはずだと感じます。このブログによって何かが起これば、そのときは本当にマッケナを救ったりできるのかもしれません。

 

洗車シーンが表現するもの

クライマックスシーンでは、レイチェルが車の洗車を終えてジェフに電話し、自宅で会う約束をつけてセックスをします。時間帯はおそらく午後。心から楽しんでいるのが伝わってくるようなシーンで、レイチェルがモヤモヤから解放されて自由になった感じがしました。まさに『Afternoon Delight』ですよね。最終的にレイチェルは、自分のちょっとした理想だった夫との”午後の喜び”を手に入れたというわけですね。

 

実はオープニングも、車の洗車シーンからでした。そのときは、通話履歴を行ったり来たりさせるだけで実際にはジェフへ電話せず、運転席から後ろの席へ移動したりして落ち着きがありませんでした。最後まで見てわかったのですが、このオープニングシーンは、レイチェルの「変化への渇望」がよく現れているシーンだったのかもしれません。洗車機での洗車中に車内にいると、ちょっとした非日常になりますよね。いつも座っている運転席ではなく、ほとんど乗らない後部座席に座ってみるのも、非日常になり得ます。

 

さいごに

コメディ映画であっても、結構考えさせてくる内容でした。

長々と述べていますが、最後まで読んでくださった方はいたのでしょうか。もしあなたがそうであるなら、本当にありがとうございます。嬉しいです。

“制限”には良さもあると思う 映画『レイダース 失われたアーク《聖櫃》』など

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去年、iPadApple Pencilを手に入れました。

もともと絵をかくのが好きなので、これでデジタルで絵を描けるぞと大喜びし、手元に製品が届くとすぐに、いろいろリサーチして決めた「Procreate」というお絵かきソフトを導入しました。

 

ところがいざ使ってみると、使えるブラシの種類の豊富さに圧倒されてしまいました。

使い始める前までは、たくさんのブラシがプリインストールされていることに大変な魅力を感じていたのに、実際に使おうと思うとそれが難しかったんです。しかも、その膨大な量のブラシひとつひとつを自分好みにカスタマイズすることができるんですが、これも私を大いに惑わせてきました。

「どれを使おう」と考えるだけでめまいがする。ぼかしたり色を混ぜたり、ほかにも本当にいろんなことができるので、機能や使い方を覚える必要がある。そう思うとどんどん息苦しくなって、私はソフトにもデジタルお絵かきにも急速に興味を失っていき、半年くらいでやめてしまいました。

 

それからしばらくして、ためしにAppleのソフトである「Pages」を使ってみたんですが、驚いたことにこれでのお絵かきはかなり楽しむことができました。本来はお絵かきではなく文書作成を目的としたアプリなんですが、何が良かったのか考えてみると、それは「選択肢が少なく自由度が低いこと」にあったのだと思いました。

ブラシの種類は3種類だけですし、線の太さも5種類からしか選べません。かすれ具合とか筆圧がどうとか、そういう設定はできませんし、レイヤーという概念もありません。この制限が、私には心地よかったのです。

 

要するに、プロではない私には、不自由なのではないかというレベルの機能があれば十分だったわけです。

24色しかない色鉛筆、5色しかない水性マーカー、白い画用紙、これだけだったほうが逆にいろんな工夫ができます。この「工夫ができる」という「余白」が、私にとっての自由であり、安心につながっているということなんだと思います。制限されているのに自由がある、という一見すると矛盾しているような状態が心地よかったわけです。

 

 

話は変わって、最近、インディ・ジョーンズ作品のうち、最新作4作目『クリスタル・スカルの王国』(2008)と、1作目『レイダース 失われたアーク《聖櫃》』(1981)を立て続けに鑑賞しました。

 

この2作品を観て思ったのは、まず「相変わらず先住民とかアジア系の描き方がえぐいな」ということと、「制限があるがゆえの良さがあるな」ということでした。

 

ここで「制限」と表現しているのは、技術的な面での話です。

 

レイダース 失われたアーク《聖櫃》』の有名なシーンとして顔面が溶ける描写がありますが、あれはCGではなく実際に溶ける頭を一から作って撮影しているんですよね。これって現代の技術があれば、もっともっとリアルで自然な溶解シーンに仕上げられるはずです。でも、私は手作りの表現にも十分魅力を感じます。

 

最初のスターウォーズとかもそうですが、人類以外の種族がすべて手づくりスーツを着た人間が演じている感じがいいですよね。ジュラシックパーク1作目に登場するラプトルも精巧なロボットですし、ETもグレムリンも作り物です。

21世紀の技術を知っているからこその意見なのは承知していますが、やっぱり人間が頑張ってアナログで表現している映画は面白いものです。数年前大ブームになった『カメラを止めるな!』だって、低予算でもいろいろ頑張っているからこそ味があって良かったとも言えそうですよね。

 

もちろん、ものすごくリアルなCG表現の良さだってあります。

現実にはありえないものでも、本物みたいに映像化されていたらリアリティが増します。そうすると、俳優たちの素晴らしい演技と相まって、なんというか映画がサマになるんですよ。アメコミを実写化したとき、脚本を文学的にして敵や戦闘シーンを超リアルにつくれば、それは“子供向け”ではなく“大人向け”に昇華されるように思います。いや、昇華されるというか、そうであって初めて大人も楽しめる作品になりうる、と言ったほうが正確ですかね。トビー・マグワイアスパイダーマンが大好きなんですが、これとのちのアメイジングスパイダーマンの印象が違うのには、映像技術という側面の差もあるような気がします。

とにかく、昨今のコミック作品の実写化が盛り上がる理由のひとつには、「超リアルな映像を作る技術」にある気がします。

 

インディ・ジョーンズを観て、自分のデジタルお絵かきの経験を思い起こしたのでこの記事を書いたんですが、結果としては「制限が自由を生むという話」と「技術の進歩の話」を並べた構図になってしまいました。

文章を書くのは初心者ですので、ちょっと見逃してください。。

 

とにかく、制限というのは、ある程度であれば存在しているほうがいいのかもしれないと思った、今日この頃でした。

本当に素敵な映画なのか考える 映画『プラダを着た悪魔』

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はじめに言いますがボロクソに意見を書いています。

この映画は2006年公開作品で、以前投稿したブログ記事に載せた「なんにも頭を使わずにすむような映画が観たい」とき用リストに載せているので、これまで何度か鑑賞している映画です。

 

chanerino.hatenablog.com

 

あらためて見直したわけではなく「ちょっと思うところがあったなぁ」ということを思い出したので記事にしようと思い至ったというだけでこれをつづります。

 

 

あらすじ

みなさんご存知かと思いますが簡単に書きます。こんな感じだと思います。

優秀な成績で名門大学を出たばかりのジャーナリスト志望のアンディは、その夢に近づくために、一流ファッション誌「ランウェイ」のアシスタントとして働き始める。ファッション界は特殊で、これまで一切の関心を持たずに過ごしてきたアンディには理解に苦しむ世界。ところがある日、鬼編集長ミランダの指摘によって意識を変え、同僚の力を借りつつこの世界で経験を積むために自分を磨いていく。ファッションの奥深さを知り、厳しい編集長の無理な要望にも完璧に対応するアンディは、徐々に仕事仲間から認められるようになる。しかし、私生活はというと状況は悪化するばかり。仕事で頭角を表すほど、恋人や友人からは距離を置かれるようになってしまう。そんなとき、アンディにパリ行きのビッグチャンスが舞い込むが…。

 

アンディは最初、なんというか野暮ったくて、極端に言えばファッション界のことをバカにしていた節があります。友人たちや恋人も同様で、会話から「あいつらは自分たちとは違う」といった意識をビンビンに感じます。

そんな感覚でいるのに、彼女がやっと手にした職はなんとファッション誌のアシスタントだった、というわけですよね。ファッションに無関心なアンディがなぜ一流ファッション誌に雇われたのかというと、ミランダ曰く「過去に雇った女の子たちはオシャレだけどみんな頭が悪くて使えなかった」から、地味でも頭脳明晰な彼女を試しに雇ってみようかみたいな理由だったと思います。

 

努力家のアンディは、仕事に奮闘し、人脈も広げ、意識を変えてファッションも学び、ミランダの意地悪な要求に応えていきます。もともと志望していたわけではない場所でも、自分のできることをどんどん増やして成長するって相当すごいことだと思います。

ところが、恋人と友人たちの”意識”は全く変わっていないので、映画の中盤からは彼らとの間にギャップが生まれる様子が描かれます。

 

モヤモヤ①器の小さい恋人

まず、恋人の男性。

彼は確かシェフを目指して見習いを頑張っている人だったと思います。彼自身も夢を追いかけて毎日頑張っている状態であって、そういう意味ではアンディと同じ立場です。

この彼は、仕事で成長中のアンディに不満を持つんですよ。例えば「なんか見た目が変わったな」とか、「24時間拘束かよってくらい編集長から電話来てんな」とか、「俺より仕事を優先すんだろ?」とか、彼的には段階を踏んだモヤモヤやすれ違いが重なっていったみたいです。そして終いには喧嘩になって、「俺たち距離を置こう」とか言い始めるんですよ。

あくまで個人的な考えですけど、何度見ても「まずちゃんと会話しろよ」って思ってしまいます。「機会はたくさんあったよね?」と。映画を観てると話せそうな機会はちゃんとありそうなんですよ。でもしない。「あの頃の君が好きだったのに」みたいな態度や発言って、彼女にはあんまりじゃないですか。彼女をよく見て会話していれば、彼女の内面はとくに変わっていないってわかるはずなのに、その努力はせずに表面的なことだけを見て判断していますよね。ファッション業界では外見を磨くことも重要だという事情も理解せず、知ろうともせず、文句だけ言って離れようとするなんてあんまりです。将来の夢がかかった仕事なら頑張るのは当然じゃないですか。お前もそうなんじゃねえのかよ、とツッコミたくなります。

 

モヤモヤ②なんでも知った気の友人

そしてこの理不尽な事実上の破局宣言のあと、傷心のアンディは仕事で知り合った素敵な男性といい感じになります。これは恋愛映画あるあるですよね。「だって傷ついてるんだもん」という立派な動機で、恋人とは別の人間(たいていの場合はセクシーでタブーな相手)とキスしちゃった、みたいなアレです。 

この場面をたまたま見ていた友人(女性)は、アンディに詰め寄って「あなたはそんな人じゃなかったのに」みたいなことを言います。

これもよくわかりません。友人ならまず状況を聞きません?「そんな人じゃなかった」とか判断できるほどアンディを理解しているっていうならなおさらです。「そんな人じゃなかった」から「何かあったはず」と考えるのが友達なんじゃないのか。なんで一方的に非難するのか、理解できなくてモヤついてしまいます。
ニューヨークっていう場所で友人やってるくらいだから、結構信頼関係があると思って見ていたんですけど、別にそこまででもないってだけなんでしょうか。

 

パリへ来て吹っ切れるアンディ

いろいろ大変なアンディはビッグチャンスであるパリ行きを獲得してミランダと渡仏します。

ホテルでミランダから個人的な苦労話を打ち明けられちょっと同情し、いい感じになっていた素敵な男性とワンナイトし、でもそいつはミランダを蹴落とそうとする勢力側のひどい奴だとわかり、ミランダに警告しようとするも失敗し、ところがどっこいミランダのほうが一枚上手であることが判明し、でもこれによって同僚の昇進の機会が絶たれてしまうという、「競争の多い世界の闇」を一通り経験するアンディ。自分の保身のためなら他を蹴落とすのが当然の世界に疑問を持ち、不満をミランダにぶつけると、とどめの一発「あなたも同じことをエミリーにしたじゃない」がミランダから飛んでくるのです。

エミリーというのは第1アシスタント、つまりアンディの直属の先輩みたいなもんで、もともとパリ行きは彼女のチャンスだったんですが、アンディはそれを奪い取った形になりました。実際は、都合よくエミリーが交通事故にあったから、アンディは自分がパリに行こうと決断したという流れなので、なんかちょっとグレーです。観客がアンディに反感を持たないように工夫されている感じがします。

 

アンディは一連の出来事を経て、ファッション業界からはスパッと見切りをつけます。パリでドレスを着たアンディが、ケータイを噴水に放り投げて颯爽とミランダのもとを去るシーンはたしかに清々しくてかっこいいです。

このあと、ニューヨークの新聞社で働き始めたアンディは、以前のような地味なスタイルに戻っています。新聞社に入れたのは、実はミランダが強力な推薦状を書いてくれていたから、という話だった気がします。そして久しぶりに元カレと再会し、彼とやり直す、というエンディングでした。

 

ここでまた気になってしまうのは、この映画ってファッション業界を舞台にしている割にはファッション業界をちょっとけなしてないか、という点です。

 

モヤモヤ③「ファッション」の描き方と価値観

アンディはあれだけファッションセンスを磨いたのに、それをほぼ捨てています。ですが、これは「自分らしくいよう」という彼女の意思表明だと思うので、別に気にはなりません。ファッションはTPOが重要ですから、新聞社に勤めるならそういう服装をするべきでしょうしね。

気になるのは、彼氏とやり直すところです。

これってつまり、「私はあのときどうかしていた。もう昔の私に戻ったから許して。」と彼氏に歩み寄ったように見えてしまうんです。会話を聞いても彼はそれで満足してじゃあヨリ戻しましょうかみたいな感じがしますし、結局これって「ファッションの世界は異常」で、「間違い」だったっていうメッセージになっていますよね。少なくとも”この2人にとっては”の話であることはわかっていますが、最後までファッション業界の人間を自分たちとは別の人間として見ているように思えてなりません。認めるとか受け入れるとか、そういうアクションはありません。

映画を通して見えてくるアンディの人となりを考えると、この彼氏ってアンディには釣り合わなくない?もっと次元の高い人にしたらいいのでは…と、余計なお世話でしょうが考えてしまうのです。友人の女性にしろ、彼にしろ、アンディのことを表面的にしか理解していないように思えてなりません。薄っぺらいですよ。賢いけれど頭が柔軟でしかも努力家なアンディは、もっと評価されるべきだと思います。

 

あと主にミランダや、ワンナイトの相手を通して、ファッション業界の裏切りとか出し抜きとかコワい側面が最後に強調されて終わるのもなんだかなと思います。

やっぱり、ヒエラルキーの上位に君臨するのは楽じゃないってことでしょうか。「スクールカースト」を考えるとわかりやすいかもしれません。

とくに中学校とか高校で、なんとなく人間のランク付けが行われていて、そのランクの上位グループに属する男女は基本的には「容姿がいい」人たちの集まりであり、絶対的No.1の生徒以外はみんな自分のランクを落とさないためにドロドロ頑張っている。みんなNo.1から嫌われないように必死になるわけです。彼らは”ダサい”生徒を見つけてはマウントをとって格下として扱う。自分と同じレベルだと判断すれば蹴落とす。こういう小さい小競り合いが多々起こって問題が絶えない、友人を信じられない、みたいな状態になったりする感じって、この映画のファッション業界の描かれ方とかぶって見えるのは私だけでしょうか。

 

これまで多くのティーン向け海外作品を鑑賞してきましたが、たいていの場合は”ダサい”生徒(オタクを含む)=まじめでやさしく賢い【善】、”イケてる”生徒=容姿は良いがバカでいじわる【悪】、みたいな描かれ方をします。ダサい子はシェイクスピアを暗唱できるけど、イケてる子はそれができないどころかバカにしている、みたいなのが典型です。

アンディは明らかに”ダサい”側です。そして一度変身したものの結局はこの”ダサい”側に戻ったわけです。アンディは、「人を裏切ったりしてまで上を目指すようなやり方は自分には合わない」「そんなふうに見られたくない」といった感じで業界を去りますが、めちゃくちゃ本質的なところでは、やっぱり”ダサい”側が性に合っているというのが本当のところでしょう。アンディは良いですが、結果的にファッション業界が【悪】として描かれているように見えるこの物語のつくりって、大丈夫なのかと少し引っ掛かるんですよね。

「ファッションが素敵」というのを最大の売りにしているような映画なのに、結果的には「ファッション=悪」というメッセージが見えるという、大きな矛盾を抱えているように思えます。

 

終わりに

もちろん私だって、アンディの周囲が薄っぺらくないとドラマが起こらないっていうのは理解しています。それに、現実世界では何があっても”イケてる”側が優勢であることは変わらないので、映画とか作品の中では【悪】として描かれてくれないと浮かばれない気持ちがあるのもわかります。でも、「自分たちとあの人たち」みたいな感じで他者化がなされたまま終了するのが気になります。

ただの文句ですが、海外の場合は「真実を描いてマイノリティに手を差し伸べる」みたいな脚本が多いんですけど、日本っていつ何時でもマジョリティばかりをキラキラさせてきますよね。

 

とにかく、私個人としては、映画『プラダを着た悪魔』は「大きな矛盾を抱えた映画」だとして捉えています。

最後まで読んでいただけてうれしいです。ありがとうございました。

お涙頂戴なんかじゃない 映画『バーバラと心の巨人』

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原題は『I Kill Giants』。

Netflixのサムネイルはこの原題が大きく書かれたポスターになっていて、あらすじに目を通してすぐに再生したので、邦題を知らないまま鑑賞しました。正直言って、知らずに鑑賞できてよかったです。

 

主人公バーバラの気持ちが痛いほどわかりました。

個人的な話で恐縮ですが、私も昔、彼女と似たような経験をしているので、映画の終盤で気づいたころにはもう共感しきりでした。

とにかく素直に感動して、自分の人生を振り返ったりもして、数日たってしまいました。ここに思ったことを書いておきたいと思います。

 

あらすじ

簡単に書きたいと思います。こんなところです。

周囲から変人扱いされている(おそらく)ローティーンの主人公バーバラ。うさぎ耳のカチューシャを身に着けた風変わりな彼女は、何も知らない町の住人を巨人たちの脅威から守っていた。すべてを奪っていく巨人を倒せるのは自分だけだと信じるバーバラの毎日は、その巨人たちの相手で忙しい。本人は至って真剣だが、周囲からは奇行として受け取られている。そしてそれをよくわかっているバーバラは、自分を気にかけてくれる姉やスクールカウンセラーを含め、誰に対しても徹底的に反抗しているが、イギリスからの転校生ソフィアには徐々に心を開き、親交を深めていく。そんな中、巨人の親玉タイタンとの決戦の日が近づく。

 バーバラの家庭環境

映画の冒頭で、海の見える家で姉と兄(弟)と一緒に暮らす様子が描かれます。どうやら姉が仕事をして、弟と妹の衣食住を支えているようだとわかります。妹は自分の世界で生き、弟はゲームばかりしているという状況で、姉はいっぱいいっぱいです。

 学校での人間関係

学校でのバーバラは孤立しており、いじめっ子グループに目をつけられています。ところが、巨人退治に忙しいバーバラは周囲に関心がなく、いじめっ子に対しても強気です。

そんなバーバラですが、ある日イギリスから転校してきたソフィアと少しずつ仲良くなります。ソフィアはバーバラから巨人の話を聞き、疑いながらも、最後までバーバラの味方でいようとするやさしい子です。

また、新しく赴任した心理カウンセラーのモル先生にも気にかけられるようになります。モル先生が手を差し伸べようとしても、バーバラはなかなか心を開かずに拒否します。途中、カウンセリング中に頭を抱え、衝動的にモル先生を殴ってしまうなど、物語が進むにつれて「問題児」っぷりに拍車がかかってしまいます。

   

これ以降の内容には、以下の映画に関するネタバレを含みます。

 

 

 

巨人の正体

この作品に登場する巨人とは、バーバラにだけ見えている怪物のことです。他の人たちには、強い風が吹いたり、波が荒れたりするようにしか見えないようです。

巨人は複数存在しています。映画の中盤までは、いわば"下っ端"の巨人たちをおびき寄せて退治するため、バーバラは日々森の中や海辺を偵察したり、特製のエサやワナを仕掛けたりしています。彼女がこんなことをしているのには理由があります。 

 

実はバーバラの母は重い病気にかかっていて、自宅の2階の一室で療養していました。

バーバラは、「巨人がやってきたら母が奪われてしまうから、自分が倒さなければならない」と信じているのです。

この事実は映画の終盤、つまり巨人のラスボス・タイタンとの決戦のときまではっきりしません。家に両親がいる気配がないことや、バーバラが2階の部屋を恐れていること、モル先生に対するバーバラのセリフなどから、じわじわと事実がわかってくるような作りになっていました。

 

バーバラはずっとひとりで闘っている

この映画に関する感想記事なんかをいくつか読みましたが、たいていの場合「ソフィアやモル先生と関わったことでバーバラが成長した」みたいな解釈がなされていました。

 

でも、私はそう思えません。

たしかに周囲に心配や迷惑をかけまくりますが、バーバラは最初から最後まで、自分ひとりで問題に立ち向かっています。

孤独だったときも、ソフィアを受け入れたあとでも、彼女は自分にしか見えない巨人を相手にひとりで闘っていました。巨人を倒すのは自分の役目であり、誰の助けも要らなかったからです。だから、モル先生が一生懸命に会話をしよう(悩みを聞いてあげよう)と試みても、母の病気のことを受け入れる準備の整っていないバーバラにとっては余計な干渉でしかなく、ある種のパニック状態になり、思わず先生を殴ってしまったのだと思います。

 

バーバラは、基本的にはひとりで行動しています。森の奥や海辺で、誰にも気づかれず、ただただ巨人を倒そうと必死になっているだけです。 

それに、周囲からしたら自分が変人に見えるということも、ちゃんとわかっています。

自分が使命としてやっていることは誰にも理解できないし、できなくていい。「関わらなくていいからただ放っておいてほしい」という感じが伝わってきて胸が痛かったです。

 

つらい現実は自力で受け入れるしかない

タイタンを追い詰めたとき、彼女は会話の中で「ママを助けられない」と自分で気づきます。本当は心の底ではわかっていたけれど受け入れられなかった事実を、恐ろしい巨人に立ち向かうことを通して発見したのだと思います。このことは、ほかの誰かに手助けされたりするのではなく、バーバラ自身のやり方で達成することに意味があるのだと思いました。

 

大切な人を失う悲しみは、体験した人でないとわからないものです。

バーバラにとってのタイタンとの決戦直前、モル先生は「巨人はいない。お母さんは病気なんだからきちんと向き合わなければ」と彼女に言います。バーバラが現実から目をそらしていると思っている先生は、彼女のためを思って必死になってそう言っています。でも実際は、半分正解で、半分不正解です。バーバラは「違う!」とモル先生を突き飛ばし、巨人のもとへ向かいます。この時点で「巨人はいない」と言われたら、バーバラが反発するのも無理はないと思います。

 

映画は終わっても人生は続く

最終的には、バーバラはタイタンを倒します。

そして、タイタンから人生に関する助言をもらい、彼女は現実を受け入れる準備を整え、これまで近づけなかった2階の部屋に向かいます。そこにはたくさんのチューブや点滴の管と繋がった母がベッドに寝ていて、バーバラはその横にそっと添い寝します。

何かが繋がった状態でベッドに横たわる母というのは、紛れもない事実をつきつけてくるものなので、近寄りがたい気持ちは痛いほどわかります。観ていて自分の十数年前の記憶がよみがえりました。

 

2人はベッドで会話を交わします。

「ママに会うのが怖かった」と打ち明け、母に抱きしめられるバーバラを見てうれし涙が出ました。うれし涙です。初体験でした。

 

場面は夏休み明けの教室に移ります。そして、うさぎ耳カチューシャをとり、すっきりした面持ちのバーバラがそこにいます。きっと夏休みの間、母と一緒の時間を過ごせたのだと思います。そして少しずつ、心の準備をしていったのだと思います。

教室にモル先生が来て、「間もなく」だと告げられたバーバラは、「怖がることないよ」とモル先生に言います。

 

お葬式が終わり、夜になって2階の自室でベッドに横になるバーバラは、ふと母のいた部屋に移動します。窓の外をのぞくと、海の中にタイタンの姿があります。

ここでバーバラは、「大丈夫。思っているより強いんだよ」とタイタンに声を掛けます。タイタンは何も言わず、地平線のほうへ向かって去っていきます。

そして、バーバラは母のベッドで眠りにつき、映画が終わります。

 

終わりに

この作品は「巨人を倒す話」だと思って見始めたんですが、ふたを開けてみれば「少女が母親の死を受け入れるまでの過程の物語」でした。

こういうテーマの作品は意図的に避けてきていました。でも、なぜかわかりませんが、これはすんなり心に入ってくるいい作品だったと思えました。

ちょっと個人的に感情移入しすぎてしまいましたが、最後まで読んでくださったのならうれしいです。ありがとうございます。

気楽に恋愛映画を観たいなら 映画『真夜中のマグノリアで』

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たまに「なんにも頭を使わずにすむような恋愛映画が観たい」という、制作側から怒られそうな動機でもって映画を探すことがあります。

 

こんな気持ちになったときのために、私が用意している映画リストはこんな感じです。

どれだけ共感を得られるのかわかりませんが、いつも思い浮かぶのはこのあたり。

改めて考えると『マイ・インターン』が恋愛映画のジャンルに入るのかはちょっと怪しいですね。実は「なんにも頭を使わずにすむような映画が観たい」とき用リストのうちの恋愛映画編だったんですが、ほかは割愛します。

 

何はともあれ最近、これら”マイ・リスト”に新しい映画が追加されそうです。

それが、『真夜中のマグノリアで』という映画です。

 

 

あらすじ

シカゴでラジオパーソナリティーをしているマギーとジャックは、幼馴染みで大親友。

全国放送のチャンスをものにするため、家族とリスナーの前で恋人同士のフリをすることに。

Netflixのあらすじを少し引用

 

要するに「幼馴染が相手に対して抱く本当の気持ちに気づく」そして「結ばれる」という超典型的なラブストーリーです。ネタバレとかもうそういう次元ではないです。

あと、「パジャマ姿なのにメイクもヘアもばっちり」系です。そういう感じです。

 

想定外に大ごとになった嘘

マギーとジャックの父親たちは、共同でジャズバー「マグノリア」を長年経営しており、毎年12月26日には両家族でマグノリアに集まって食事をするのが恒例になっています。

セリフから読み取る限り、2人の一番古いエピソードは高校時代のものですが、たぶんもっともっと前からの幼馴染みなのでしょう。

また、2人ともそれぞれの恋人と長続きしないということが示唆されています。マギーの恋人は、ジャックの存在をよく思っておらず、「クリスマスには、ジャックの家族もいる中に僕も参加するの?」みたいな質問を投げかけたりします。

付き合っているのは君なんだから堂々として彼女の言葉を信じろよと個人的には思うんですが、こういうビビりな彼氏でないと話が進みませんから仕方ないです。

 

 恋人のフリをすると決めた背景には、2人のラジオ番組を全国放送にするための準備として年越し生配信イベントが企画され、そこで2人の恋人を紹介することになったのに、すぐに両カップルとも破局してしまったので、「じゃあ自分たちが恋人同士ですってことにすれば良いでは?」と思い至った、というのがあります。ジャックのひらめきで、「イベントが終わったら友人に戻ることにしたと言えばいいじゃん」くらいの軽いノリでした。

ところが、恋人同士だと家族に嘘をつくと「やっとだ!」と大喜び。

ジャックはマギーの父親からいつかのプロポーズのためにマギーの亡き母の指輪を託されたりして、ジャックはことの重大さに気づいて罪悪感にさいなまれます。

 

異性愛者同士の男女の友情は成立しないのが世の常

恋人のフリをし始めてから、マギーと姉の会話で、マギーは実はずっと昔からジャックのことが好きだったとわかるんですが、正直ここで冷めてしまいました。好きだったのかよ。

 

ジャックは鈍感にもほどがありますが、高校時代の元恋人と偶然再会し、昔話に花を咲かせている中で「あなたはマギーを想っていたから私たちは別れた」と言われて初めて自分の気持ちに気づきます。好きだったのかよ。

 

ジャックの歌の違和感

年越しイベントはマグノリアを会場にして開催されました。

このとき、例によってマギーとジャックの関係は最悪の状態。

生放送で恋人発表というとき、マギーは耐えきれずに嘘をついていたことを告白して壇上から去ろうとします。このとき、ジャックは自分の気持ちを告白し、彼女への歌をうたいます。この歌は高校時代に彼が自作した歌で、マギーはこの歌を気に入っており、「またみんなの前で歌ってほしいのに」と言っていたものでした。

 

作った当時は「誰のことをうたったのかわからなかった」らしいんですけど、「本当か?」と思うほど”いま”の状態にピッタリな曲でした。

超ざっくり言うと「いまわかった、運命の人は君だったんだ」という内容です。”いま”作ったんじゃないのか?何にも説明なかったけど、直前になって歌詞だけ少し改変したとかそういうことなんでしょうか。映画は観る人それぞれが何かを想像するためにあるので、私はそういう解釈でいきたいと思います。

 

なぜ亡くなっている必要があるのか

私がこの映画で一番引っ掛かっているのは、マギーの母親のことです。

ジャックの両親はいまも健康で、マギーの母だけ亡くなっているのはなぜなのか。

 

私の想像ですが、「”2人が結ばれることを祝福している度”がめちゃくちゃ高いんだということを表現するため」なのではないかと勘繰っています。

 

女性側の父親が、自分の妻の指輪=家族にとって何にも代えがたい大切なものを娘の交際相手に託すというのは、相当な信頼と確信がなければできないことです。軽い気持ちで嘘をついたジャックの気持ちを本格的に揺さぶることになりますが、これは「彼の妻、彼女の母が亡くなっている」ことによって、影響力が倍増するわけです。

それ以外に、マギーの母が亡くなっている設定の理由が思いつきません。

 

20代以下の人間にとって、両親と死別するというのはある意味ファンタジーなのかもしれません。映画の主人公って、家族のだれかを亡くしていたり、両親が離婚していたり、バックグラウンドに何かしらの「喪失」を経験していることが珍しくありません。喪失体験は確かにその人物の内面を複雑にしますし、そういう人物の物語は深みを出しやすいのかもしれません。ドラマも起きやすいとされている気がします。例えば、心の傷が原因で薬物に手を出すとか。脚本として浅はかですけど、2000年代までは本当によくありました。

 

言いたいことを書きまくったら、想定していたよりも長くなってしまいましたし、なんだかんだ頭を使っていました。

ディスっているように見える文章になっている気もします…。でも、そのつもりはあまりないです。たいていの場合は受け入れるタイプです。

 

終わりに

とにかくこの映画は、「予想した通りの結末になる」映画です。シカゴが舞台でおしゃれですし、そういう意味ではサクッとみられる映画と言えそうです。また制作側を敵に回しそうな発言をしてしまいました。

あと「スピーチ・エンド」映画です。この言葉は世の中にないです。勝手に作りました。要するに「みんなの前で何か発言して拍手が起こって終わる映画」のことです。同じ特徴のある映画は山ほどあります。ティーン向け映画に多いです。そのうち記事を書きたいな、といま思いました。