洋画感想連想記

息をするように洋画を鑑賞して10数年です。海外ドラマも好きです。

本当に素敵な映画なのか考える 映画『プラダを着た悪魔』

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はじめに言いますがボロクソに意見を書いています。

この映画は2006年公開作品で、以前投稿したブログ記事に載せた「なんにも頭を使わずにすむような映画が観たい」とき用リストに載せているので、これまで何度か鑑賞している映画です。

 

chanerino.hatenablog.com

 

あらためて見直したわけではなく「ちょっと思うところがあったなぁ」ということを思い出したので記事にしようと思い至ったというだけでこれをつづります。

 

 

あらすじ

みなさんご存知かと思いますが簡単に書きます。こんな感じだと思います。

優秀な成績で名門大学を出たばかりのジャーナリスト志望のアンディは、その夢に近づくために、一流ファッション誌「ランウェイ」のアシスタントとして働き始める。ファッション界は特殊で、これまで一切の関心を持たずに過ごしてきたアンディには理解に苦しむ世界。ところがある日、鬼編集長ミランダの指摘によって意識を変え、同僚の力を借りつつこの世界で経験を積むために自分を磨いていく。ファッションの奥深さを知り、厳しい編集長の無理な要望にも完璧に対応するアンディは、徐々に仕事仲間から認められるようになる。しかし、私生活はというと状況は悪化するばかり。仕事で頭角を表すほど、恋人や友人からは距離を置かれるようになってしまう。そんなとき、アンディにパリ行きのビッグチャンスが舞い込むが…。

 

アンディは最初、なんというか野暮ったくて、極端に言えばファッション界のことをバカにしていた節があります。友人たちや恋人も同様で、会話から「あいつらは自分たちとは違う」といった意識をビンビンに感じます。

そんな感覚でいるのに、彼女がやっと手にした職はなんとファッション誌のアシスタントだった、というわけですよね。ファッションに無関心なアンディがなぜ一流ファッション誌に雇われたのかというと、ミランダ曰く「過去に雇った女の子たちはオシャレだけどみんな頭が悪くて使えなかった」から、地味でも頭脳明晰な彼女を試しに雇ってみようかみたいな理由だったと思います。

 

努力家のアンディは、仕事に奮闘し、人脈も広げ、意識を変えてファッションも学び、ミランダの意地悪な要求に応えていきます。もともと志望していたわけではない場所でも、自分のできることをどんどん増やして成長するって相当すごいことだと思います。

ところが、恋人と友人たちの”意識”は全く変わっていないので、映画の中盤からは彼らとの間にギャップが生まれる様子が描かれます。

 

モヤモヤ①器の小さい恋人

まず、恋人の男性。

彼は確かシェフを目指して見習いを頑張っている人だったと思います。彼自身も夢を追いかけて毎日頑張っている状態であって、そういう意味ではアンディと同じ立場です。

この彼は、仕事で成長中のアンディに不満を持つんですよ。例えば「なんか見た目が変わったな」とか、「24時間拘束かよってくらい編集長から電話来てんな」とか、「俺より仕事を優先すんだろ?」とか、彼的には段階を踏んだモヤモヤやすれ違いが重なっていったみたいです。そして終いには喧嘩になって、「俺たち距離を置こう」とか言い始めるんですよ。

あくまで個人的な考えですけど、何度見ても「まずちゃんと会話しろよ」って思ってしまいます。「機会はたくさんあったよね?」と。映画を観てると話せそうな機会はちゃんとありそうなんですよ。でもしない。「あの頃の君が好きだったのに」みたいな態度や発言って、彼女にはあんまりじゃないですか。彼女をよく見て会話していれば、彼女の内面はとくに変わっていないってわかるはずなのに、その努力はせずに表面的なことだけを見て判断していますよね。ファッション業界では外見を磨くことも重要だという事情も理解せず、知ろうともせず、文句だけ言って離れようとするなんてあんまりです。将来の夢がかかった仕事なら頑張るのは当然じゃないですか。お前もそうなんじゃねえのかよ、とツッコミたくなります。

 

モヤモヤ②なんでも知った気の友人

そしてこの理不尽な事実上の破局宣言のあと、傷心のアンディは仕事で知り合った素敵な男性といい感じになります。これは恋愛映画あるあるですよね。「だって傷ついてるんだもん」という立派な動機で、恋人とは別の人間(たいていの場合はセクシーでタブーな相手)とキスしちゃった、みたいなアレです。 

この場面をたまたま見ていた友人(女性)は、アンディに詰め寄って「あなたはそんな人じゃなかったのに」みたいなことを言います。

これもよくわかりません。友人ならまず状況を聞きません?「そんな人じゃなかった」とか判断できるほどアンディを理解しているっていうならなおさらです。「そんな人じゃなかった」から「何かあったはず」と考えるのが友達なんじゃないのか。なんで一方的に非難するのか、理解できなくてモヤついてしまいます。
ニューヨークっていう場所で友人やってるくらいだから、結構信頼関係があると思って見ていたんですけど、別にそこまででもないってだけなんでしょうか。

 

パリへ来て吹っ切れるアンディ

いろいろ大変なアンディはビッグチャンスであるパリ行きを獲得してミランダと渡仏します。

ホテルでミランダから個人的な苦労話を打ち明けられちょっと同情し、いい感じになっていた素敵な男性とワンナイトし、でもそいつはミランダを蹴落とそうとする勢力側のひどい奴だとわかり、ミランダに警告しようとするも失敗し、ところがどっこいミランダのほうが一枚上手であることが判明し、でもこれによって同僚の昇進の機会が絶たれてしまうという、「競争の多い世界の闇」を一通り経験するアンディ。自分の保身のためなら他を蹴落とすのが当然の世界に疑問を持ち、不満をミランダにぶつけると、とどめの一発「あなたも同じことをエミリーにしたじゃない」がミランダから飛んでくるのです。

エミリーというのは第1アシスタント、つまりアンディの直属の先輩みたいなもんで、もともとパリ行きは彼女のチャンスだったんですが、アンディはそれを奪い取った形になりました。実際は、都合よくエミリーが交通事故にあったから、アンディは自分がパリに行こうと決断したという流れなので、なんかちょっとグレーです。観客がアンディに反感を持たないように工夫されている感じがします。

 

アンディは一連の出来事を経て、ファッション業界からはスパッと見切りをつけます。パリでドレスを着たアンディが、ケータイを噴水に放り投げて颯爽とミランダのもとを去るシーンはたしかに清々しくてかっこいいです。

このあと、ニューヨークの新聞社で働き始めたアンディは、以前のような地味なスタイルに戻っています。新聞社に入れたのは、実はミランダが強力な推薦状を書いてくれていたから、という話だった気がします。そして久しぶりに元カレと再会し、彼とやり直す、というエンディングでした。

 

ここでまた気になってしまうのは、この映画ってファッション業界を舞台にしている割にはファッション業界をちょっとけなしてないか、という点です。

 

モヤモヤ③「ファッション」の描き方と価値観

アンディはあれだけファッションセンスを磨いたのに、それをほぼ捨てています。ですが、これは「自分らしくいよう」という彼女の意思表明だと思うので、別に気にはなりません。ファッションはTPOが重要ですから、新聞社に勤めるならそういう服装をするべきでしょうしね。

気になるのは、彼氏とやり直すところです。

これってつまり、「私はあのときどうかしていた。もう昔の私に戻ったから許して。」と彼氏に歩み寄ったように見えてしまうんです。会話を聞いても彼はそれで満足してじゃあヨリ戻しましょうかみたいな感じがしますし、結局これって「ファッションの世界は異常」で、「間違い」だったっていうメッセージになっていますよね。少なくとも”この2人にとっては”の話であることはわかっていますが、最後までファッション業界の人間を自分たちとは別の人間として見ているように思えてなりません。認めるとか受け入れるとか、そういうアクションはありません。

映画を通して見えてくるアンディの人となりを考えると、この彼氏ってアンディには釣り合わなくない?もっと次元の高い人にしたらいいのでは…と、余計なお世話でしょうが考えてしまうのです。友人の女性にしろ、彼にしろ、アンディのことを表面的にしか理解していないように思えてなりません。薄っぺらいですよ。賢いけれど頭が柔軟でしかも努力家なアンディは、もっと評価されるべきだと思います。

 

あと主にミランダや、ワンナイトの相手を通して、ファッション業界の裏切りとか出し抜きとかコワい側面が最後に強調されて終わるのもなんだかなと思います。

やっぱり、ヒエラルキーの上位に君臨するのは楽じゃないってことでしょうか。「スクールカースト」を考えるとわかりやすいかもしれません。

とくに中学校とか高校で、なんとなく人間のランク付けが行われていて、そのランクの上位グループに属する男女は基本的には「容姿がいい」人たちの集まりであり、絶対的No.1の生徒以外はみんな自分のランクを落とさないためにドロドロ頑張っている。みんなNo.1から嫌われないように必死になるわけです。彼らは”ダサい”生徒を見つけてはマウントをとって格下として扱う。自分と同じレベルだと判断すれば蹴落とす。こういう小さい小競り合いが多々起こって問題が絶えない、友人を信じられない、みたいな状態になったりする感じって、この映画のファッション業界の描かれ方とかぶって見えるのは私だけでしょうか。

 

これまで多くのティーン向け海外作品を鑑賞してきましたが、たいていの場合は”ダサい”生徒(オタクを含む)=まじめでやさしく賢い【善】、”イケてる”生徒=容姿は良いがバカでいじわる【悪】、みたいな描かれ方をします。ダサい子はシェイクスピアを暗唱できるけど、イケてる子はそれができないどころかバカにしている、みたいなのが典型です。

アンディは明らかに”ダサい”側です。そして一度変身したものの結局はこの”ダサい”側に戻ったわけです。アンディは、「人を裏切ったりしてまで上を目指すようなやり方は自分には合わない」「そんなふうに見られたくない」といった感じで業界を去りますが、めちゃくちゃ本質的なところでは、やっぱり”ダサい”側が性に合っているというのが本当のところでしょう。アンディは良いですが、結果的にファッション業界が【悪】として描かれているように見えるこの物語のつくりって、大丈夫なのかと少し引っ掛かるんですよね。

「ファッションが素敵」というのを最大の売りにしているような映画なのに、結果的には「ファッション=悪」というメッセージが見えるという、大きな矛盾を抱えているように思えます。

 

終わりに

もちろん私だって、アンディの周囲が薄っぺらくないとドラマが起こらないっていうのは理解しています。それに、現実世界では何があっても”イケてる”側が優勢であることは変わらないので、映画とか作品の中では【悪】として描かれてくれないと浮かばれない気持ちがあるのもわかります。でも、「自分たちとあの人たち」みたいな感じで他者化がなされたまま終了するのが気になります。

ただの文句ですが、海外の場合は「真実を描いてマイノリティに手を差し伸べる」みたいな脚本が多いんですけど、日本っていつ何時でもマジョリティばかりをキラキラさせてきますよね。

 

とにかく、私個人としては、映画『プラダを着た悪魔』は「大きな矛盾を抱えた映画」だとして捉えています。

最後まで読んでいただけてうれしいです。ありがとうございました。

お涙頂戴なんかじゃない 映画『バーバラと心の巨人』

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原題は『I Kill Giants』。

Netflixのサムネイルはこの原題が大きく書かれたポスターになっていて、あらすじに目を通してすぐに再生したので、邦題を知らないまま鑑賞しました。正直言って、知らずに鑑賞できてよかったです。

 

主人公バーバラの気持ちが痛いほどわかりました。

個人的な話で恐縮ですが、私も昔、彼女と似たような経験をしているので、映画の終盤で気づいたころにはもう共感しきりでした。

とにかく素直に感動して、自分の人生を振り返ったりもして、数日たってしまいました。ここに思ったことを書いておきたいと思います。

 

あらすじ

簡単に書きたいと思います。こんなところです。

周囲から変人扱いされている(おそらく)ローティーンの主人公バーバラ。うさぎ耳のカチューシャを身に着けた風変わりな彼女は、何も知らない町の住人を巨人たちの脅威から守っていた。すべてを奪っていく巨人を倒せるのは自分だけだと信じるバーバラの毎日は、その巨人たちの相手で忙しい。本人は至って真剣だが、周囲からは奇行として受け取られている。そしてそれをよくわかっているバーバラは、自分を気にかけてくれる姉やスクールカウンセラーを含め、誰に対しても徹底的に反抗しているが、イギリスからの転校生ソフィアには徐々に心を開き、親交を深めていく。そんな中、巨人の親玉タイタンとの決戦の日が近づく。

 バーバラの家庭環境

映画の冒頭で、海の見える家で姉と兄(弟)と一緒に暮らす様子が描かれます。どうやら姉が仕事をして、弟と妹の衣食住を支えているようだとわかります。妹は自分の世界で生き、弟はゲームばかりしているという状況で、姉はいっぱいいっぱいです。

 学校での人間関係

学校でのバーバラは孤立しており、いじめっ子グループに目をつけられています。ところが、巨人退治に忙しいバーバラは周囲に関心がなく、いじめっ子に対しても強気です。

そんなバーバラですが、ある日イギリスから転校してきたソフィアと少しずつ仲良くなります。ソフィアはバーバラから巨人の話を聞き、疑いながらも、最後までバーバラの味方でいようとするやさしい子です。

また、新しく赴任した心理カウンセラーのモル先生にも気にかけられるようになります。モル先生が手を差し伸べようとしても、バーバラはなかなか心を開かずに拒否します。途中、カウンセリング中に頭を抱え、衝動的にモル先生を殴ってしまうなど、物語が進むにつれて「問題児」っぷりに拍車がかかってしまいます。

   

これ以降の内容には、以下の映画に関するネタバレを含みます。

 

 

 

巨人の正体

この作品に登場する巨人とは、バーバラにだけ見えている怪物のことです。他の人たちには、強い風が吹いたり、波が荒れたりするようにしか見えないようです。

巨人は複数存在しています。映画の中盤までは、いわば"下っ端"の巨人たちをおびき寄せて退治するため、バーバラは日々森の中や海辺を偵察したり、特製のエサやワナを仕掛けたりしています。彼女がこんなことをしているのには理由があります。 

 

実はバーバラの母は重い病気にかかっていて、自宅の2階の一室で療養していました。

バーバラは、「巨人がやってきたら母が奪われてしまうから、自分が倒さなければならない」と信じているのです。

この事実は映画の終盤、つまり巨人のラスボス・タイタンとの決戦のときまではっきりしません。家に両親がいる気配がないことや、バーバラが2階の部屋を恐れていること、モル先生に対するバーバラのセリフなどから、じわじわと事実がわかってくるような作りになっていました。

 

バーバラはずっとひとりで闘っている

この映画に関する感想記事なんかをいくつか読みましたが、たいていの場合「ソフィアやモル先生と関わったことでバーバラが成長した」みたいな解釈がなされていました。

 

でも、私はそう思えません。

たしかに周囲に心配や迷惑をかけまくりますが、バーバラは最初から最後まで、自分ひとりで問題に立ち向かっています。

孤独だったときも、ソフィアを受け入れたあとでも、彼女は自分にしか見えない巨人を相手にひとりで闘っていました。巨人を倒すのは自分の役目であり、誰の助けも要らなかったからです。だから、モル先生が一生懸命に会話をしよう(悩みを聞いてあげよう)と試みても、母の病気のことを受け入れる準備の整っていないバーバラにとっては余計な干渉でしかなく、ある種のパニック状態になり、思わず先生を殴ってしまったのだと思います。

 

バーバラは、基本的にはひとりで行動しています。森の奥や海辺で、誰にも気づかれず、ただただ巨人を倒そうと必死になっているだけです。 

それに、周囲からしたら自分が変人に見えるということも、ちゃんとわかっています。

自分が使命としてやっていることは誰にも理解できないし、できなくていい。「関わらなくていいからただ放っておいてほしい」という感じが伝わってきて胸が痛かったです。

 

つらい現実は自力で受け入れるしかない

タイタンを追い詰めたとき、彼女は会話の中で「ママを助けられない」と自分で気づきます。本当は心の底ではわかっていたけれど受け入れられなかった事実を、恐ろしい巨人に立ち向かうことを通して発見したのだと思います。このことは、ほかの誰かに手助けされたりするのではなく、バーバラ自身のやり方で達成することに意味があるのだと思いました。

 

大切な人を失う悲しみは、体験した人でないとわからないものです。

バーバラにとってのタイタンとの決戦直前、モル先生は「巨人はいない。お母さんは病気なんだからきちんと向き合わなければ」と彼女に言います。バーバラが現実から目をそらしていると思っている先生は、彼女のためを思って必死になってそう言っています。でも実際は、半分正解で、半分不正解です。バーバラは「違う!」とモル先生を突き飛ばし、巨人のもとへ向かいます。この時点で「巨人はいない」と言われたら、バーバラが反発するのも無理はないと思います。

 

映画は終わっても人生は続く

最終的には、バーバラはタイタンを倒します。

そして、タイタンから人生に関する助言をもらい、彼女は現実を受け入れる準備を整え、これまで近づけなかった2階の部屋に向かいます。そこにはたくさんのチューブや点滴の管と繋がった母がベッドに寝ていて、バーバラはその横にそっと添い寝します。

何かが繋がった状態でベッドに横たわる母というのは、紛れもない事実をつきつけてくるものなので、近寄りがたい気持ちは痛いほどわかります。観ていて自分の十数年前の記憶がよみがえりました。

 

2人はベッドで会話を交わします。

「ママに会うのが怖かった」と打ち明け、母に抱きしめられるバーバラを見てうれし涙が出ました。うれし涙です。初体験でした。

 

場面は夏休み明けの教室に移ります。そして、うさぎ耳カチューシャをとり、すっきりした面持ちのバーバラがそこにいます。きっと夏休みの間、母と一緒の時間を過ごせたのだと思います。そして少しずつ、心の準備をしていったのだと思います。

教室にモル先生が来て、「間もなく」だと告げられたバーバラは、「怖がることないよ」とモル先生に言います。

 

お葬式が終わり、夜になって2階の自室でベッドに横になるバーバラは、ふと母のいた部屋に移動します。窓の外をのぞくと、海の中にタイタンの姿があります。

ここでバーバラは、「大丈夫。思っているより強いんだよ」とタイタンに声を掛けます。タイタンは何も言わず、地平線のほうへ向かって去っていきます。

そして、バーバラは母のベッドで眠りにつき、映画が終わります。

 

終わりに

この作品は「巨人を倒す話」だと思って見始めたんですが、ふたを開けてみれば「少女が母親の死を受け入れるまでの過程の物語」でした。

こういうテーマの作品は意図的に避けてきていました。でも、なぜかわかりませんが、これはすんなり心に入ってくるいい作品だったと思えました。

ちょっと個人的に感情移入しすぎてしまいましたが、最後まで読んでくださったのならうれしいです。ありがとうございます。

気楽に恋愛映画を観たいなら 映画『真夜中のマグノリアで』

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たまに「なんにも頭を使わずにすむような恋愛映画が観たい」という、制作側から怒られそうな動機でもって映画を探すことがあります。

 

こんな気持ちになったときのために、私が用意している映画リストはこんな感じです。

どれだけ共感を得られるのかわかりませんが、いつも思い浮かぶのはこのあたり。

改めて考えると『マイ・インターン』が恋愛映画のジャンルに入るのかはちょっと怪しいですね。実は「なんにも頭を使わずにすむような映画が観たい」とき用リストのうちの恋愛映画編だったんですが、ほかは割愛します。

 

何はともあれ最近、これら”マイ・リスト”に新しい映画が追加されそうです。

それが、『真夜中のマグノリアで』という映画です。

 

 

あらすじ

シカゴでラジオパーソナリティーをしているマギーとジャックは、幼馴染みで大親友。

全国放送のチャンスをものにするため、家族とリスナーの前で恋人同士のフリをすることに。

Netflixのあらすじを少し引用

 

要するに「幼馴染が相手に対して抱く本当の気持ちに気づく」そして「結ばれる」という超典型的なラブストーリーです。ネタバレとかもうそういう次元ではないです。

あと、「パジャマ姿なのにメイクもヘアもばっちり」系です。そういう感じです。

 

想定外に大ごとになった嘘

マギーとジャックの父親たちは、共同でジャズバー「マグノリア」を長年経営しており、毎年12月26日には両家族でマグノリアに集まって食事をするのが恒例になっています。

セリフから読み取る限り、2人の一番古いエピソードは高校時代のものですが、たぶんもっともっと前からの幼馴染みなのでしょう。

また、2人ともそれぞれの恋人と長続きしないということが示唆されています。マギーの恋人は、ジャックの存在をよく思っておらず、「クリスマスには、ジャックの家族もいる中に僕も参加するの?」みたいな質問を投げかけたりします。

付き合っているのは君なんだから堂々として彼女の言葉を信じろよと個人的には思うんですが、こういうビビりな彼氏でないと話が進みませんから仕方ないです。

 

 恋人のフリをすると決めた背景には、2人のラジオ番組を全国放送にするための準備として年越し生配信イベントが企画され、そこで2人の恋人を紹介することになったのに、すぐに両カップルとも破局してしまったので、「じゃあ自分たちが恋人同士ですってことにすれば良いでは?」と思い至った、というのがあります。ジャックのひらめきで、「イベントが終わったら友人に戻ることにしたと言えばいいじゃん」くらいの軽いノリでした。

ところが、恋人同士だと家族に嘘をつくと「やっとだ!」と大喜び。

ジャックはマギーの父親からいつかのプロポーズのためにマギーの亡き母の指輪を託されたりして、ジャックはことの重大さに気づいて罪悪感にさいなまれます。

 

異性愛者同士の男女の友情は成立しないのが世の常

恋人のフリをし始めてから、マギーと姉の会話で、マギーは実はずっと昔からジャックのことが好きだったとわかるんですが、正直ここで冷めてしまいました。好きだったのかよ。

 

ジャックは鈍感にもほどがありますが、高校時代の元恋人と偶然再会し、昔話に花を咲かせている中で「あなたはマギーを想っていたから私たちは別れた」と言われて初めて自分の気持ちに気づきます。好きだったのかよ。

 

ジャックの歌の違和感

年越しイベントはマグノリアを会場にして開催されました。

このとき、例によってマギーとジャックの関係は最悪の状態。

生放送で恋人発表というとき、マギーは耐えきれずに嘘をついていたことを告白して壇上から去ろうとします。このとき、ジャックは自分の気持ちを告白し、彼女への歌をうたいます。この歌は高校時代に彼が自作した歌で、マギーはこの歌を気に入っており、「またみんなの前で歌ってほしいのに」と言っていたものでした。

 

作った当時は「誰のことをうたったのかわからなかった」らしいんですけど、「本当か?」と思うほど”いま”の状態にピッタリな曲でした。

超ざっくり言うと「いまわかった、運命の人は君だったんだ」という内容です。”いま”作ったんじゃないのか?何にも説明なかったけど、直前になって歌詞だけ少し改変したとかそういうことなんでしょうか。映画は観る人それぞれが何かを想像するためにあるので、私はそういう解釈でいきたいと思います。

 

なぜ亡くなっている必要があるのか

私がこの映画で一番引っ掛かっているのは、マギーの母親のことです。

ジャックの両親はいまも健康で、マギーの母だけ亡くなっているのはなぜなのか。

 

私の想像ですが、「”2人が結ばれることを祝福している度”がめちゃくちゃ高いんだということを表現するため」なのではないかと勘繰っています。

 

女性側の父親が、自分の妻の指輪=家族にとって何にも代えがたい大切なものを娘の交際相手に託すというのは、相当な信頼と確信がなければできないことです。軽い気持ちで嘘をついたジャックの気持ちを本格的に揺さぶることになりますが、これは「彼の妻、彼女の母が亡くなっている」ことによって、影響力が倍増するわけです。

それ以外に、マギーの母が亡くなっている設定の理由が思いつきません。

 

20代以下の人間にとって、両親と死別するというのはある意味ファンタジーなのかもしれません。映画の主人公って、家族のだれかを亡くしていたり、両親が離婚していたり、バックグラウンドに何かしらの「喪失」を経験していることが珍しくありません。喪失体験は確かにその人物の内面を複雑にしますし、そういう人物の物語は深みを出しやすいのかもしれません。ドラマも起きやすいとされている気がします。例えば、心の傷が原因で薬物に手を出すとか。脚本として浅はかですけど、2000年代までは本当によくありました。

 

言いたいことを書きまくったら、想定していたよりも長くなってしまいましたし、なんだかんだ頭を使っていました。

ディスっているように見える文章になっている気もします…。でも、そのつもりはあまりないです。たいていの場合は受け入れるタイプです。

 

終わりに

とにかくこの映画は、「予想した通りの結末になる」映画です。シカゴが舞台でおしゃれですし、そういう意味ではサクッとみられる映画と言えそうです。また制作側を敵に回しそうな発言をしてしまいました。

あと「スピーチ・エンド」映画です。この言葉は世の中にないです。勝手に作りました。要するに「みんなの前で何か発言して拍手が起こって終わる映画」のことです。同じ特徴のある映画は山ほどあります。ティーン向け映画に多いです。そのうち記事を書きたいな、といま思いました。

Netflix映画『ラブ&モンスターズ』あたたかさとハラハラ感がちょうどいい

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先月(2021年4月)、Netflixで配信が始まった映画『ラブ&モンスターズ』。

 

この映画は、SF、コメディ、そしてアクションの要素を持っていると言えそうです。

 

名前の通り、多種多様なモンスターがたくさん出てきます。

作品の雰囲気は結構コミカルで、モンスターとの戦闘シーンはハラハラドキドキするものの、気楽な気持ちで鑑賞できます。

理不尽な展開や、のちの展開の伏線としてモヤモヤさせられるシーンなどはほとんどないので、共感能力の鋭い人でも安心していられるでしょう。

 

 

あらすじ

あらすじを簡単に書きます。こんなところだと思います。

7年前、突如として小惑星「アガサ616」が地球に接近。人類はミサイルを飛ばし、なんとか小惑星を破壊して事なきを得る。

ところが、爆発したミサイルの化学物質が地上に降り注ぎ、アリ、トカゲ、ゴキブリ、ワニなどさまざまな生物が狂暴なモンスターと化してしまい、たった1年で人口の95%が死亡してしまう。生き残った人類は地下シェルターなどに避難した。

主人公ジョエルは、とある地下シェルターに住んでいる。7年前、両親はモンスターに襲われて死亡。恋人エミリーとは離ればなれになり、「必ず見つける」と約束していた。

ある日、無線機を使ってエミリーの居場所を突き止めることに成功したジョエルは、仲間の反対を押し切って危険な地上へ出ていく。

これ以降の内容には、以下の映画に関するネタバレを含みます。

  • 『ラブ&モンスターズ』

 

主人公ジョエルのキャラクターが素晴らしい

言うなればドラマ『the OC』のセス・コーエン、『ゴシップガール』のダン・ハンフリー(ダンはセスをモデルにしているらしいですが)、そして不良っぽさを抜いたシャイア・ラブーフのようなキャラクターだと思います。

 

何を言っているのか意味不明だと思うので具体的に言いますと、

  • ちょっと頼りないけど心優しくて思いやりがある
  • リーダーではなくフォロワータイプ
  • ユーモアがあってよくしゃべる
  • 皮肉を言ったりもする

こんな感じの、どちらかというと三枚目な感じです。伝わっているでしょうか…。

 

私は個人的にこういうキャラクターが大好きなんですよね。映画の冒頭にはジョエルのナレーションによる状況説明があるんですが、この時点で上記の特徴が見て取れて、もうそれだけでこの作品に対する好感度が爆上がりしました。ちなみに主人公ジョエルを演じているのは、映画『メイズ・ランナー』シリーズでおなじみのディラン・オブライエンです。

すさまじいマッチョ感や圧倒的なカリスマ性でもって人を引っぱるのではなく、他人から大きな信頼を得て結果として人を引っぱるタイプ。動物やロボットにもやさしく接する人物。何度でも言いますが私は好きです。

 

この映画でも然りですが、この三枚目キャラは「緊張感を緩める」という重要な役割を果たします。たいがいは主人公ではなく脇役に振られることが多いですが、最近の映画やドラマでは、主人公の属性として設定されていることが増えている気がします。ジョークや皮肉を飛ばせる場合、やさしさや知性を多く備えているからでしょうか。

 

7年ぶりの恋人との再会がリアル

恋人エミリーと再会するために、ひとり地上に出たジョエル。

結論としては、ジョエルは無事にエミリーのいる海に面したシェルターまで辿りつき、7年ぶりの再会を果たせます。

 

印象に残ったのは、このあとの展開です。

 

7年前、混乱の中で「愛している」と言い合って離れてから、ジョエルは一途にエミリーを想っていました。「必ず見つける」と約束し、それを実現しました。そして命がけで彼女のもとにたどり着きました。

映画だったら、この流れであれば、出迎えたエミリーとジョエルが熱く抱き合ったり、キスを交わしたりして感動の展開になりそうです。ところがそうはなりませんでした。

 

離れていた7年の間にエミリーは最愛の人を見つけており、その人は去年亡くなっていました。「もう昔の私はいない」と悲しそうに告げるエミリーに対し、ジョエルはこう返します。

俺はなんてバカなんだ。

来るべきか聞かなかった。ただ急いで飛び出してきた。

会いにくれば君は僕に惚れ直し、ハッピーエンドだと期待していた。

 

ここでジョエルが怒らずに、「来るべきか聞かなかった」と言うんです。

彼女の気持ちを尊重できていなかったこと、自分の都合のいいようにしか考えていなかったことを反省するんです。これは、なかなかできないことです。

 

この4年くらいで、こういう描かれ方がされていると感動してしまう身体になりました。ヒロインが一人の人間として描かれている作品は最近ではかなり増えてきました。私は海外の映像作品ばかり見ていて、自分の国の作品はほとんど見ていないのですが、日本の映像作品はどうなのでしょうか。日本の場合、少なくともCMやバラエティ番組の構成を見る限りでは、そこまでではなさそうに思えます。

ちなみに『ラブ&モンスターズ』では、エミリーも体をはって敵と戦います。鉄板1枚で銃を連射する敵に向かって体当たりしたりします。普通そうに見える女性がそういう”動き”をしているところを見るという経験は重要だと思います。

 

最後には勇気をくれる

ジョエルは、「外は危険だけど自分が7日間生き延びられたならだれでも可能」と言って、「閉じこもっていてはだめだ」とメッセージを送ります。無線を使って、全世界に向けて発信しています。また、7年間の間に絵が上達し、自分が知ったモンスターに関する情報などを絵とともに書き記したノートを作成しており、初版はエミリーに渡して自身は第2版を所有しています。

 

現実世界はコロナ禍で閉塞感が漂っていますが、このモンスターパニックの危険な世界と重ね合わせてみることもできそうです。

映画『マンハッタン・ラプソディ』外見コンプレックスを乗り越える

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今から1か月前くらいに、『マンハッタン・ラプソディ』という映画を観ました。NETFLIXでサーチしていて、たまたま発見した作品でした。

 

NETFLIXって、配信作品を選択するとプレビューが再生される仕組みになっているんですが、この『マンハッタン・ラプソディ』のプレビューは主人公が大学で講義をしているシーンをそのまま切り取ったものになっていて、これに惹かれました。

 

講義では、主人公ローズが「典型的な女性の3タイプ」の話をしています。

”男好きの女”、”メデューサ(嫉妬する女)”、そして”私”。私と表現した最後のタイプは、”忠実な侍女”。つまり、いつも花嫁の横にいるけれど、決して花嫁にはなれない存在のことらしいです。この話は自分の妹クレアの結婚式に参加した経験から、それぞれクレア、母、ローズに当てはまるのだそうです。

講義をしているローズは化粧っ気がなく、シンプルな黒い服をまとっていて、地味な感じですが、知的でユーモアがあって、学生には大人気であることがわかりました。

 

よくあるラブコメっぽいな…と軽い気持ちで鑑賞し始めましたが、結構心に響いたので、ここに感想を書いておきたいと思いました。

 

『マンハッタン・ラプソディ』は1996年のアメリカ映画です。

簡単にあらすじを書きます。こんなところだと思います。

 大学教授のローズは自分の容姿に自信がなく、自分にロマンスは向かないと感じている。大学の同僚グレゴリーは、過去の女性経験から美人恐怖症に悩まされている。グレゴリーは「博士号持ちで35歳以上、容姿は問わない」という条件で、新聞に恋人募集広告を出す。これを見たローズの妹クレアは、ローズに黙って彼女の写真と情報を送る。ローズを気に入ったグレゴリーはさっそく彼女に近づこうと、彼女の講義を覗きに行く。ローズは講義の中で「文学の世界ではセックスは破滅のもとで、古くは結婚やセックスは重要ではなく、精神的な結びつきこそが真実の愛とされていた」と語り、グレゴリーはこれに感銘を受けます。連絡を取り合うようになった二人はデートを重ねていき、次第に互いの魅力に気付き始め、惹かれあうようになる。「精神的な結びつき」の力を強く信じたグレゴリーは、ローズに肉体関係なしの交際を求め、戸惑いつつもローズはこれに同意。順調に交際を続け、やがて二人は結婚する。新婚生活も問題なく過ごしていたが、ローズは自分が欲求不満であることに気が付いて焦り始める。一方のグレゴリーも、彼女のセクシーな部分に気が付き始め、自分で誓った「肉体関係を持たない」という気持ちが揺らぎそうになって動揺する。そんな中、二人の間に決定的な溝ができてしまい…。

これ以降の内容には、以下の映画に関するネタバレを含みます。

  • 『マンハッタン・ラプソディ』 

 

この作品は「外見の美しさ」というのが大きなテーマの一つになっています。

 

主人公ローズは、自分のことを醜いと思っています。それゆえに、一般的に女性的とみなされていることから遠ざかっています。例えば、化粧をする、おしゃれをする、恋人とのロマンス、といったものです。

コンプレックスの原因はだんだんと明らかになっていきますが、主に母親と妹の存在にあります。二人とも美人で派手な性格で、母は部屋中に昔の自分の写真を飾っていたり、妹クレアの結婚式でも自分が主役といった具合ですし、クレアも次々と男を乗り換える系の女性として描かれています。クレアはもともと結婚していたにも拘らず、ローズが片想いしていたアレックスといい仲になり結婚に至っています。アレックスは鈍感な男で、ローズの気持ちにはまったく気づいておらず、ローズは自分の気持ちを打ち明けることなく「美人の妹に勝ち目なんかない」と卑下して譲ってしまったのでしょう。

 

ローズは映画の後半で、幼少期に母から「鼻がそれ以上伸びないように抑えていろ」と何度も言われ、それによって「自分はブスなのだ」と気づいてしまったと母に打ち明けています。ところが母は「そんなこと言うわけがない」とこのことを覚えていないというのがすごくリアルです。自分とは対照的に、妹は母に似て誰から見ても美人なので、きっと人生のいかなるときにも、自分と妹を比較していたのだろうと想像できます。

一晩明けて、母は彼女なりに考えたことをローズに伝えます。母は、実は人生で誰のことも愛したことがないこと、いつも「まだ時間がある」「人生はこれから」と若い娘の気分でいて、年老いた今もなおその気持ちを持っていること、でも現実は違うので娘たちについ嫉妬してしまうことを打ち明けます。美人であるがゆえの葛藤ですが、これもリアルです。この告白のあとで、一枚の写真をローズに手渡します。ローズは写真の可愛い子供をクレアだと思って褒めますが、実は自分の写真であると聞き、前向きな気持ちになります。「あなたは可愛い。忘れないで。」という母の言葉は暖かくて、少し目がうるつきました。

 

話が前後しますが、この一連の出来事の直前に、ローズは(一応合意のもと)グレゴリーとのセックスを試みるも最終的には拒まれてしまいます。実際にはグレゴリーは「肉体関係を持ったら関係が破綻する」と信じていたために無理やり自制しているだけなのですが、勇気を振り絞った分ローズは傷つき、「彼がセックスを拒んだのは自分に魅力がないからだ」と思ってしまいます。

母とのやり取りで気持ちが前向きになったローズは、グレゴリーが海外出張している間に自分磨きを始めます。ジムに通い、美容室へ行き、化粧を学び、どんどんきれいになります。そして帰ってきたグレゴリーにきっぱり別れを告げます。

 

この映画の素晴らしいところは多々ありますが、そのうちのひとつは、グレゴリーが割と主体的に行動している点です。

恋愛映画(とくにベタなやつ)では、男性が「女性の望むように動きすぎる」ことがありません?(正確に言うなら「女性が望んでいるとされている行動をとりがち」がいいかもしれませんが。)男性側の心理描写はあまりなされず、そういう行動をとらせるために友人や家族が手助けしたり、時間がたって誤解が解けたりして、「観客が納得するだけ」の根拠でもって話が進みがちです。

 

関係がこじれる前、グレゴリーはローズのありのままの姿を受け入れています。

例えば、初めてのデートでローズが自分の数学の話をすぐに理解したときは、素直に感心して喜んでいました。ローズが化粧をしていない自分を「女失格だ」と卑下したときには、「君は自分に自信があるから飾りが要らないのだ」と言ったし、食事の際にローズが独特な食べ方をしても、それを「儀式」だと表現して馬鹿にしませんでした。それどころか、彼女の考えを理解し受け入れていました。母と3人のディナーでも、見栄を張ってローズをたしなめる母に動じずに、徹底してローズの味方に立ちました。そんなグレゴリーに、ローズは惹かれていったはずですし、彼女もそれをよくわかっているのですが、コンプレックスというのは手ごわいもので、そう簡単には払しょくされません。女性的なことを遠ざけてきた彼女は、いわば最も性的な行為であるセックスを拒まれたとき、自分のコンプレックスをその原因と結びつけてしまったのだと思います。

 

グレゴリーは自信に満ちた素敵な男性に違いないのですが、まじめなので自分の信念を曲げられないところがあります。それに、いかにも男性的ですが、”実際に言われないと”相手が何を考えているのか想像できない人物です。彼自身は彼女を心から魅力的だと思っていますし、「セックス抜きの関係」に対して満足していて、合意した彼女も同様だ信じているので、こんなすれ違いが起こるんですよね。

 

 グレゴリーに別れを告げたローズはすっかり「外見に気を遣う女性」になり、健康的な食事を意識したりしていて、親友が「モテない同士で味方だと思っていたのに」と悲しむシーンがあります。でも、ごたつく恋愛映画あるあるは起こらず、ローズは親友に「中身は変わっていない」ことを証明して、仲たがいしなかったので安心しました。

 

また、クレアは早々にアレックスに飽きており、ローズがグレゴリーと別れたころに離婚しました。フリーになったアレックスはすっかり外見が美しくなったローズに惹かれ、少しいい感じになります。二人はキスを交わし、ローズの長年の夢が叶います。

キスの最中、アレックスは「ずっと君を愛していたけど、気がつかなかった。」という”なんかロマンチックだけど矛盾したこと”を囁きます。引っ掛かったローズが問いただすと、アレックスは「あの頃は今と違っていたから…」なんてぬかします。外見が変わったから中身の良さに気が付いた。要するに、外見の美しさが重要だということです。 

 

このあとの吹っ切れたローズのセリフがかっこよくて好きです。

(キスを夢見ていたのに)何も感じない。

今までは自分に自信がなく、あなたを喜ばせることばかり夢見ていた。

自分はあなたに釣り合わないと思っていた。

でもアレックス、自信が生まれたから、もうあなたじゃ物足りない。

アレックスはハンサムなだけで薄っぺらいという残念な男性として描かれています。

自分に自信がないと、自分の価値を低く見積もってしまって、無意識のうちにその価値観に合わせた相手を求めてしまうということを、うまく表現しているなと思いました。

 

最終的には、ローズが住むアパートにグレゴリーが来て、道路上ですべての誤解を解いて復縁します。抱き合ってキスをしますが、このときマンションのひとりの住人が気を利かせてプッチーニの曲を流します。荘厳な曲に合わせて歌まで歌ってくれますが、プレビューになっていた講義の終盤で、「恋に落ちるとプッチーニの曲が聞こえる人もいる」みたいな話が出てきていまして、この伏線を何気に回収しています。おしゃれです。

 

熱くなって長文になってしまいました。

最後まで読み切ってくださった方がいたならうれしい限りです。ありがとうございます。

 

あとで調べたら、主演のバーブラ・ストライサンドは、監督も務めているようでした。

Wikipedia情報では以下のようにあります。これが本当であれば、この作品と自身の体験がかなりリンクしている可能性があります。この作品で描かれる「外見至上主義」的な話題がリアルなのも納得です。

母親のダイアナ・アイダ・ローゼンはバーブラが魅力的ではないと感じ、娘にショービジネスを勧めることはなかった。この事が、バーブラが長年、エンターテイメント界での数々の成功にもかかわらず自分の容姿にコンプレックスを持ち続けた理由ではないかとされている。

 

追記

グレゴリーは数学科の教授で、本を出版するほどの人物ですがユーモアのセンスはゼロ。講義も大変つまらないため、学生からもあまり人気はありません。ただハンサムで誠実そうなルックスではあるので、そこそこモテるようです。過去に何人もの女性といい関係になっているものの、毎回うまくいっていません。友人には「セックスと仕事が両立しない」と指摘されています。

ちょっとした豆知識ですが、序盤で「美人と付き合ってもいいことがない」と思い悩むグレゴリーが自宅でテレビを見るシーンがあって、なぜか性的な印象の番組ばかり放送されていて面白いんですが、この中で一瞬、映画『バイオハザード』でおなじみの若かりしミラ・ジョヴォヴィッチが登場してました。

脅威との共存 新型コロナとジュラシックワールド

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世の中、まだコロナですよね。

この新型のウイルスが世界中で猛威を振るい始めたころに「アフター・コロナ」という単語が生まれて(使われるようになって)、「コロナが終息した後の世界」的な話のときによく出てきていた気がします。このころはまだ、みんなが事の重大さを理解し始めたころだったように思うのですが、初めての緊急事態宣言が明けて夏になっても、まただんだん寒くなってきても一向に収束しそうにない状況に戸惑い、そのうち「ウィズ・コロナ」と言って「コロナと共存していく」という概念についてよく聞くようになりました。記憶違いならすみません。

 

 コロナと共存していく。「共存」というキーワードから、ふと、映画『ジュラシックワールド/炎の王国』を思い出しました。

 

これ以降の内容には、以下の映画に関するネタバレを含みます。

 

 

ネタバレしますが、この作品のラストで恐竜たちが野に放たれます。

草食恐竜も肉食恐竜も、なんならティラノサウルスも放たれました。

つまり、私たちが居住するエリアにも恐竜たちがやってくる可能性が生まれたということであり、映画の中でもそんな描写があります。この作品は次回作が製作中で、来年('22年)公開になる予定らしいですが、この次回作では、文字通り「恐竜との共存」が描かれるのではと思っているのです。

 

これらの映画のことを知らない人に向けて簡単に説明したいと思います。

(もう知っているよという人は飛ばしましょう。) 

映画『ジュラシックワールド』はシリーズ物で、前述の『炎の王国』は2作目です。

そして、このシリーズは映画『ジュラシックパーク』シリーズを源流としています。

 

ジュラシックパーク』は、琥珀に生き埋めになっていた蚊のお腹の中にあった恐竜の血液からDNAを採取して、本物の恐竜をよみがえらせることに成功した人たちが、とある無人島に恐竜たちを放ち、「ジュラシックパーク」というテーマパークを作ろうとしたんだけれど、開園直前でえらいことになり、結局パークをオープンできずに終わるというお話です。3作品作られていて、2作目以降は放置されている「ジュラシックパーク」を舞台にして恐竜たちとハチャメチャする話です。

 

そして、これの続編として製作された新シリーズ『ジュラシックワールド』は、懲りない人間がまたあの無人島に新たなジュラシックパークを作り出し、パーク名を「ジュラシックワールド」として、今度は恐竜と触れ合ったり眺めたりできる完ぺきな体験型テーマパークを完成させ、ある程度ちゃんと運営できているという状態からお話が始まります。

世界中のセレブなんかも訪れる激映えスポットになっているようですが、客に飽きられるのは困るということで、「もっと大きく、もっと狂暴で、もっと歯の多い、世にも恐ろしい恐竜」をハイブリッドで作り出しており、公開をまじかに控えている状況です。ところがこのハイブリッド恐竜(通称インドミナスレックス)が隔離施設から脱走してしまい、登場人物たちはこの信じられないくらい強いインドミナスレックスと死闘を繰り広げます。

ジュラシックパーク』時代から「めちゃくちゃ賢い恐竜」として通っているヴェロキラプトルという種類の恐竜が人間の指示でチーム行動したり、ティラノサウルスが頑張ったりして、なんとかインドミナスレックスをやっつけます。1作目はここで終わります。

 

私が言及している2作目『炎の王国』では、前作で閉園したジュラシックワールドの火山が近々噴火することが判明し、放置されて生き残っている恐竜たちをどうするのか議論になっている中、とあるお金持ちが秘密裏にその恐竜たちを島から救出するべく、主人公たちを島へ送るところから始まります。ところが実際は、恐竜たちを救出するのではなく高額で売りさばくことが目的だったとわかり、主人公たちは裏切られます。捕らえられた多数の恐竜たちはカリフォルニア州にある大邸宅の秘密の実験施設に輸送され、ここで次々に競売にかけられていきます。このとき試作品として新たなハイブリッド恐竜(通称インドラプトル)が登場します。インドラプトルは、前作のインドミナスレックスのDNAをもとにして作られていて、体長はやや小さいもののインドミナスレックスよりもさらに賢く、狂暴です(歯も多いはず)。観客としては嫌な予感がしますが、その予感は的中し、インドラプトルは檻から出てきて人を襲い始めてしまいます。これを主人公たちと1頭のヴェロキラプトル(名前はブルー)が協力してやっつけます。この死闘と現場の混乱で、捕らえられた恐竜たちがいるラボで有毒ガスが放出されてしまい、このままだと恐竜たちはみんな死んでしまうという状況になります。赤いボタンを押して扉を開ければ助けられますが、そうすれば恐竜たちを外に逃がすことになるという極限状態で、女性の主人公が泣く泣くボタンから手を放しました。ところが、ずっと一緒に行動していた少女がこのボタンを押して、恐竜たちを野に放ってしまいます。実は彼女は自身の母親のクローンであり、自分と同じクローンである恐竜たちにも生きる権利があると考え、ボタンを押す決断をしたのでした。

こうして、多くの恐竜たちがカリフォルニアに放たれることになったわけです。

  

 『ジュラシックワールド/炎の王国』が公開されたのは、2018年。公開初日に映画館へ観に行ったのを覚えています。最後に恐竜が放たれ、動物園や住宅街を見下ろす場所に恐竜がいる描写をみたとき、「まじかよ。ジュラシック“ワールド”ってそういうことか。次のテーマは共存かな。」と思っていました。「共存」というキーワードをすぐに引っ張り出せたのは、実を言うと2016年公開の映画『シン・ゴジラ』のおかげです。これを劇場で鑑賞したときは、リアルすぎて恐怖を覚えましたし、それはしばらく心に残り続けました。ゴジラという「脅威」は決してなくならず、そこに存在し続けます。これと共存していくしか選択肢がない中で、どうやって生きていけばいいのかという問題提起がなされて作品は幕を閉じるわけです。ジュラシックワールドでは次回作でいろいろと描かれるんでしょうが、少なくともこの2作品では「そこに紛れもなく存在する脅威と向き合う」という共通項があるように思えます。

 

私たちは今、COVID-19という「そこに紛れもなく存在する脅威と向き合う」生活を送っています。専門家ではありませんが、このウイルスが地球上からなくなることはほぼないですよね。そうであれば、これと共存していくしかないわけです。

超大雑把にくくると、今ってSF映画と同じ状況なんだなと思えてきます。

 

パンデミックが起こって1年以上たったこのごろ、そんなことを考えています。

 

追記

そういえば、映画『アイアムアヒーロー』も同時期に鑑賞していまして、私にとってはこれもなかなかリアルでじわじわ怖くなる系の作品でした。原作は読んだことないですが、これってどう決着するんでしょう…。ショッピングモールを離れちゃって、日本中どこもゾンビだらけだなんて絶望しかないですよ。なんかこう、アルカディア的なエリアはあるんですかね。