洋画感想連想記

息をするように洋画を鑑賞して10数年です。海外ドラマも好きです。

本当に素敵な映画なのか考える 映画『プラダを着た悪魔』

f:id:chanerino:20210612211354p:plain

はじめに言いますがボロクソに意見を書いています。

この映画は2006年公開作品で、以前投稿したブログ記事に載せた「なんにも頭を使わずにすむような映画が観たい」とき用リストに載せているので、これまで何度か鑑賞している映画です。

 

chanerino.hatenablog.com

 

あらためて見直したわけではなく「ちょっと思うところがあったなぁ」ということを思い出したので記事にしようと思い至ったというだけでこれをつづります。

 

 

あらすじ

みなさんご存知かと思いますが簡単に書きます。こんな感じだと思います。

優秀な成績で名門大学を出たばかりのジャーナリスト志望のアンディは、その夢に近づくために、一流ファッション誌「ランウェイ」のアシスタントとして働き始める。ファッション界は特殊で、これまで一切の関心を持たずに過ごしてきたアンディには理解に苦しむ世界。ところがある日、鬼編集長ミランダの指摘によって意識を変え、同僚の力を借りつつこの世界で経験を積むために自分を磨いていく。ファッションの奥深さを知り、厳しい編集長の無理な要望にも完璧に対応するアンディは、徐々に仕事仲間から認められるようになる。しかし、私生活はというと状況は悪化するばかり。仕事で頭角を表すほど、恋人や友人からは距離を置かれるようになってしまう。そんなとき、アンディにパリ行きのビッグチャンスが舞い込むが…。

 

アンディは最初、なんというか野暮ったくて、極端に言えばファッション界のことをバカにしていた節があります。友人たちや恋人も同様で、会話から「あいつらは自分たちとは違う」といった意識をビンビンに感じます。

そんな感覚でいるのに、彼女がやっと手にした職はなんとファッション誌のアシスタントだった、というわけですよね。ファッションに無関心なアンディがなぜ一流ファッション誌に雇われたのかというと、ミランダ曰く「過去に雇った女の子たちはオシャレだけどみんな頭が悪くて使えなかった」から、地味でも頭脳明晰な彼女を試しに雇ってみようかみたいな理由だったと思います。

 

努力家のアンディは、仕事に奮闘し、人脈も広げ、意識を変えてファッションも学び、ミランダの意地悪な要求に応えていきます。もともと志望していたわけではない場所でも、自分のできることをどんどん増やして成長するって相当すごいことだと思います。

ところが、恋人と友人たちの”意識”は全く変わっていないので、映画の中盤からは彼らとの間にギャップが生まれる様子が描かれます。

 

モヤモヤ①器の小さい恋人

まず、恋人の男性。

彼は確かシェフを目指して見習いを頑張っている人だったと思います。彼自身も夢を追いかけて毎日頑張っている状態であって、そういう意味ではアンディと同じ立場です。

この彼は、仕事で成長中のアンディに不満を持つんですよ。例えば「なんか見た目が変わったな」とか、「24時間拘束かよってくらい編集長から電話来てんな」とか、「俺より仕事を優先すんだろ?」とか、彼的には段階を踏んだモヤモヤやすれ違いが重なっていったみたいです。そして終いには喧嘩になって、「俺たち距離を置こう」とか言い始めるんですよ。

あくまで個人的な考えですけど、何度見ても「まずちゃんと会話しろよ」って思ってしまいます。「機会はたくさんあったよね?」と。映画を観てると話せそうな機会はちゃんとありそうなんですよ。でもしない。「あの頃の君が好きだったのに」みたいな態度や発言って、彼女にはあんまりじゃないですか。彼女をよく見て会話していれば、彼女の内面はとくに変わっていないってわかるはずなのに、その努力はせずに表面的なことだけを見て判断していますよね。ファッション業界では外見を磨くことも重要だという事情も理解せず、知ろうともせず、文句だけ言って離れようとするなんてあんまりです。将来の夢がかかった仕事なら頑張るのは当然じゃないですか。お前もそうなんじゃねえのかよ、とツッコミたくなります。

 

モヤモヤ②なんでも知った気の友人

そしてこの理不尽な事実上の破局宣言のあと、傷心のアンディは仕事で知り合った素敵な男性といい感じになります。これは恋愛映画あるあるですよね。「だって傷ついてるんだもん」という立派な動機で、恋人とは別の人間(たいていの場合はセクシーでタブーな相手)とキスしちゃった、みたいなアレです。 

この場面をたまたま見ていた友人(女性)は、アンディに詰め寄って「あなたはそんな人じゃなかったのに」みたいなことを言います。

これもよくわかりません。友人ならまず状況を聞きません?「そんな人じゃなかった」とか判断できるほどアンディを理解しているっていうならなおさらです。「そんな人じゃなかった」から「何かあったはず」と考えるのが友達なんじゃないのか。なんで一方的に非難するのか、理解できなくてモヤついてしまいます。
ニューヨークっていう場所で友人やってるくらいだから、結構信頼関係があると思って見ていたんですけど、別にそこまででもないってだけなんでしょうか。

 

パリへ来て吹っ切れるアンディ

いろいろ大変なアンディはビッグチャンスであるパリ行きを獲得してミランダと渡仏します。

ホテルでミランダから個人的な苦労話を打ち明けられちょっと同情し、いい感じになっていた素敵な男性とワンナイトし、でもそいつはミランダを蹴落とそうとする勢力側のひどい奴だとわかり、ミランダに警告しようとするも失敗し、ところがどっこいミランダのほうが一枚上手であることが判明し、でもこれによって同僚の昇進の機会が絶たれてしまうという、「競争の多い世界の闇」を一通り経験するアンディ。自分の保身のためなら他を蹴落とすのが当然の世界に疑問を持ち、不満をミランダにぶつけると、とどめの一発「あなたも同じことをエミリーにしたじゃない」がミランダから飛んでくるのです。

エミリーというのは第1アシスタント、つまりアンディの直属の先輩みたいなもんで、もともとパリ行きは彼女のチャンスだったんですが、アンディはそれを奪い取った形になりました。実際は、都合よくエミリーが交通事故にあったから、アンディは自分がパリに行こうと決断したという流れなので、なんかちょっとグレーです。観客がアンディに反感を持たないように工夫されている感じがします。

 

アンディは一連の出来事を経て、ファッション業界からはスパッと見切りをつけます。パリでドレスを着たアンディが、ケータイを噴水に放り投げて颯爽とミランダのもとを去るシーンはたしかに清々しくてかっこいいです。

このあと、ニューヨークの新聞社で働き始めたアンディは、以前のような地味なスタイルに戻っています。新聞社に入れたのは、実はミランダが強力な推薦状を書いてくれていたから、という話だった気がします。そして久しぶりに元カレと再会し、彼とやり直す、というエンディングでした。

 

ここでまた気になってしまうのは、この映画ってファッション業界を舞台にしている割にはファッション業界をちょっとけなしてないか、という点です。

 

モヤモヤ③「ファッション」の描き方と価値観

アンディはあれだけファッションセンスを磨いたのに、それをほぼ捨てています。ですが、これは「自分らしくいよう」という彼女の意思表明だと思うので、別に気にはなりません。ファッションはTPOが重要ですから、新聞社に勤めるならそういう服装をするべきでしょうしね。

気になるのは、彼氏とやり直すところです。

これってつまり、「私はあのときどうかしていた。もう昔の私に戻ったから許して。」と彼氏に歩み寄ったように見えてしまうんです。会話を聞いても彼はそれで満足してじゃあヨリ戻しましょうかみたいな感じがしますし、結局これって「ファッションの世界は異常」で、「間違い」だったっていうメッセージになっていますよね。少なくとも”この2人にとっては”の話であることはわかっていますが、最後までファッション業界の人間を自分たちとは別の人間として見ているように思えてなりません。認めるとか受け入れるとか、そういうアクションはありません。

映画を通して見えてくるアンディの人となりを考えると、この彼氏ってアンディには釣り合わなくない?もっと次元の高い人にしたらいいのでは…と、余計なお世話でしょうが考えてしまうのです。友人の女性にしろ、彼にしろ、アンディのことを表面的にしか理解していないように思えてなりません。薄っぺらいですよ。賢いけれど頭が柔軟でしかも努力家なアンディは、もっと評価されるべきだと思います。

 

あと主にミランダや、ワンナイトの相手を通して、ファッション業界の裏切りとか出し抜きとかコワい側面が最後に強調されて終わるのもなんだかなと思います。

やっぱり、ヒエラルキーの上位に君臨するのは楽じゃないってことでしょうか。「スクールカースト」を考えるとわかりやすいかもしれません。

とくに中学校とか高校で、なんとなく人間のランク付けが行われていて、そのランクの上位グループに属する男女は基本的には「容姿がいい」人たちの集まりであり、絶対的No.1の生徒以外はみんな自分のランクを落とさないためにドロドロ頑張っている。みんなNo.1から嫌われないように必死になるわけです。彼らは”ダサい”生徒を見つけてはマウントをとって格下として扱う。自分と同じレベルだと判断すれば蹴落とす。こういう小さい小競り合いが多々起こって問題が絶えない、友人を信じられない、みたいな状態になったりする感じって、この映画のファッション業界の描かれ方とかぶって見えるのは私だけでしょうか。

 

これまで多くのティーン向け海外作品を鑑賞してきましたが、たいていの場合は”ダサい”生徒(オタクを含む)=まじめでやさしく賢い【善】、”イケてる”生徒=容姿は良いがバカでいじわる【悪】、みたいな描かれ方をします。ダサい子はシェイクスピアを暗唱できるけど、イケてる子はそれができないどころかバカにしている、みたいなのが典型です。

アンディは明らかに”ダサい”側です。そして一度変身したものの結局はこの”ダサい”側に戻ったわけです。アンディは、「人を裏切ったりしてまで上を目指すようなやり方は自分には合わない」「そんなふうに見られたくない」といった感じで業界を去りますが、めちゃくちゃ本質的なところでは、やっぱり”ダサい”側が性に合っているというのが本当のところでしょう。アンディは良いですが、結果的にファッション業界が【悪】として描かれているように見えるこの物語のつくりって、大丈夫なのかと少し引っ掛かるんですよね。

「ファッションが素敵」というのを最大の売りにしているような映画なのに、結果的には「ファッション=悪」というメッセージが見えるという、大きな矛盾を抱えているように思えます。

 

終わりに

もちろん私だって、アンディの周囲が薄っぺらくないとドラマが起こらないっていうのは理解しています。それに、現実世界では何があっても”イケてる”側が優勢であることは変わらないので、映画とか作品の中では【悪】として描かれてくれないと浮かばれない気持ちがあるのもわかります。でも、「自分たちとあの人たち」みたいな感じで他者化がなされたまま終了するのが気になります。

ただの文句ですが、海外の場合は「真実を描いてマイノリティに手を差し伸べる」みたいな脚本が多いんですけど、日本っていつ何時でもマジョリティばかりをキラキラさせてきますよね。

 

とにかく、私個人としては、映画『プラダを着た悪魔』は「大きな矛盾を抱えた映画」だとして捉えています。

最後まで読んでいただけてうれしいです。ありがとうございました。